浜松の龍潭寺は、2017年大河ドラマ主人公の井伊直虎、徳川家康の四天王と数えられる井伊直政などを出した井伊家の菩提寺です。国指定名勝の庭園、江戸時代に建てられた風情のある建物、季節で色が変わる自然といった、大河ドラマを知らない人にもおすすめしたい魅力が詰まっています。今回は、知っていると見学がもっと楽しめる龍潭寺の見どころを詳しく紹介し、あわせて徒歩圏内で立ち寄れる史跡も案内します。
この記事の目次表示
龍潭寺の歴史を簡単に
龍潭寺(りょうたんじ)は奥浜名湖と呼ばれる地域の井伊谷(いいのや)にある臨済宗妙心寺派のお寺で、奈良時代の僧である行基が開いたと伝えられています。井伊家の祖となる共保(ともやす)が平安時代後期の1093年に亡くなるとこの寺に葬られ、以後、井伊家の菩提寺となりました。
やがて、戦国時代の1560年に起こった桶狭間の戦いで、今川義元に従って出陣した井伊家22代の直盛が戦死し、寺に葬られると、寺の名前は直盛の戒名と同じ「龍潭寺」となり、これが現在まで続きます。滋賀県彦根市にも龍潭寺がありますが、こちらは井伊家が彦根に移った時に井伊谷の龍潭寺が分寺して建てられたお寺です。
砦の面影を残す山門付近
入り口となる「山門」は、江戸時代の1656年に建てられています。この山門の先が、お寺にしては少し変わった形になっています。写真でみると、山門の向こう側が石垣になっているのが見えるでしょうか?
たいていのお寺は、門の先には参道と本堂が見えることが多いと思います。ですが、龍潭寺は入り口の山門の先がすぐに石垣につきあたり、直角に曲がって右へ進まなければならないのです。この道筋がわかりやすいのが、お寺のサイトに掲載されている境内図で、図の下の方にある1が山門です。
なぜこのような参道になっているのでしょうか?龍潭寺は、この北にある井伊谷城(井伊城)を防衛する砦としての役割もあったといわれています。日本の一般的な城郭の入り口は、敵の侵入を防ぐために、城の中心部へ直線進行できないように作られます。龍潭寺の山門付近には、この戦うための構造が残っているのです。
左甚五郎作と伝わる廊下や彫刻
本堂前の鶯張りの廊下(歩くとキュッキュと鶯の鳴き声のような音がする廊下)は、江戸時代の職人である左甚五郎が作ったといわれています。
左甚五郎といえば日光の眠り猫が有名ですが、龍潭寺には甚五郎作といわれる龍の彫刻と、神獣である恙(つつが)の彫刻もあります
国指定名勝の池泉庭園と浜名湖に似た枯山水庭園
本堂の北側にある庭は国指定名勝記念物で、龍潭寺の目玉ともいえる見学スポットです。音声で解説が流れ、石の配置の意味などがわかりやすく説明されます。
この庭は、江戸時代前期の大名で茶道・建築・作庭などで優れた功績を残した小堀政一(通称:小堀遠州)が作ったと伝わっています。水を張った池がある庭を建物に座って鑑賞する、池泉鑑賞式(ちせんかんしょうしき)の庭園です。
どこから見ても美しい庭ではありますが、庭を見るときの前提としては、寺の東にある書院から西に建てられている井伊家霊殿を拝むように作られているとのこと。霊殿には、井伊家歴代の位牌がおさめられています。
実は、この「西」を拝むことにも意味があるのです。仏教では、人間界の西方に極楽浄土があるとされています。さらに、この庭の池はあの世とこの世の境に見立てられているとのこと。つまり、西方浄土(あの世)にいる先祖(霊殿)を、この世から拝むのです。美しい庭というだけでなく、この形にも理由があるのですね。
本堂の南側には、水がない庭園形式である枯山水(かれさんすい)の、「補蛇落(ふだらく)の庭」があります。白砂が五本の指に見えることから、同じように手のひらの形に見えるという浜名湖にちなみ「浜名湖の庭」ともいわれているそうです。(余談ですが、浜名湖はダイダラボッチが手をついた跡という伝説があります)
こちらの庭は本堂から眺めるだけではなく、外へ出て反対側からの眺めも鑑賞できるようになっています。本堂から外への眺めも風情があるのですが、外へ出て本堂を背景にした庭園の眺めも圧巻です。