明智藪
主君の織田信長を本能寺で討った後、山崎の合戦で羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れ、京都市山科区の小栗栖で土民(農民)の襲撃を受けて最期をとげたのは本能寺の変から、たった十数日後だった。
光秀はわずかな手勢を連れて山崎から近江の坂本上へ逃れる途中、小栗栖の竹藪を通りかかった。その際、土民に打たれたとされる。一説には付近の土豪だった飯田一族に討たれたとも。飯田一族の飯田佐吉右衛門は信長に仕えており、本能寺の変で追腹を切ったが、その恨みだったといわれる。光秀が討たれた藪は「明智藪」と呼ばれ、今に伝わる。近くには光秀の胴を埋めた塚がある。
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スポット情報:明智藪
2020年9月24日