福山城に残る伏見城の御湯殿

湯殿も他の建物同様京都伏見城から移築したと伝わり、1933年(昭和8年)国宝に指定されていたが1945年(昭和20年)8月の福山空襲で焼失することで指定は解除となり、現在のものは1966年(昭和41年)木造により外観復元されたものである。
※写真5枚から御湯殿です。
#サント船長の写真 #福山城 #伏見城の遺構 #城跡
八講堂千体地蔵
大津市坂本

#サント船長の写真
幻の坂本城
明智光秀の居城でしたが、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ、坂本城も落城しました、築城から約15年ほどで消え、琵琶湖にその石垣が残る程度です。

#サント船長の写真 #坂本城 #明智光秀 #城跡
鶴喜蕎麦本店
滋賀県は大津市坂本に有る
超有名な蕎麦屋さん

#サント船長の写真 #滋賀県
亀岡市亀山城跡
此処は明智光秀が、この城から信長の居る本能寺に進軍して歴史的事件「本能寺の変」をおこしました。
今は石垣と掘りだけです。

#サント船長の写真 #明智光秀
蓬莱橋(大井川)
ギネスにも登録されて居ます、蓬莱橋900メール有るそうですね、余りにも、長い橋でオイラは心が折れ辞めて引き返しましたよ。

#サント船長の写真
#東海道五拾三次
護衛艦「加賀」
2024年9月7日加賀は横須賀基地に停泊中です。

「かが」はヘリコプター用の空母として2017年に就役したが、現在は「ロッキード・マーティンF-35BライトニングII」ステルス戦闘機を搭載できるように改修されている。

#サント船長の写真
京都府美山かやぶきの里
茅葺の集落


#サント船長の写真
唐戸渓谷

京都府に有る唐戸渓谷

#サント船長の写真
大伴黒主と小野小町

 京都市上京区東堀川通一条東入ル(一条戻橋のすぐ東)に「小野小町雙紙洗水遺跡・小野通」と書かれた石碑がありました。 小松帯刀の寓居跡を探していたときに道を隔てて向かい側にあったのがこの大変小さな石碑です。 昔、小野小町が草紙洗いに使ったという伝説にまつわる井戸があり、小町伝説地なのです。 宮中での歌合せの会でお互いに競うこととなった大友黒主と小野小町。 歌ではとてもかなわないと思った大友黒主は小野小町の名声を妬んでいたこともあって小町を落としいれようと、宮中での歌合せの前夜秘かに小町の邸に忍び込みます。 そして、小町の詠草 『蒔かなくに何を種として浮草の波のうねうね生ひしげるらん』 を盗み聞きし、それを『万葉集』に書き込み、歌合せの席でその草紙を突きつけて小町の歌は盗作だと言いはります。しかし身に覚えのない小町は、一計を案じ白金のたらいに水を汲ませ、草紙を水に浸して洗ってみせました。するとあとから書き入れた部分だけは一字も残らずに消えてしまい、小町は身の潔白を証明することができました。 黒主は自害しようとしますが小町の取りなしで帝も許され、めでたい雰囲気となり、小町は勧められて和歌の徳を讃えた舞を舞います。 この時に使った水は、古くから京の名水の一つとして知られる「清和水」で、この伝説によって草紙洗水と呼ばれるようになったといわれます。

#サント船長の写真 #小野小町
#小野小町の石碑
祇園祭大船鉾
コレはなんと言う物ですか?
祇園祭の時コレを立て、揺らし支柱に鐘🔔を当てながら歩きます。此の鉾の様な物はなんでしょう。教えて下さい。

#サント船長の写真
祇園祭の山鉾で後の祭りに黒主山が有ります、此の山の御神体は、六歌仙の一人、大伴黒主です、六歌仙とは平安時代前期の『古今和歌集』の序文に記された六人の歌人で僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大伴黒主の六人です。

そんな凄い方が、宮中で事件を起こします。それは同じ六歌仙の一人小野小町とです。
大伴黒主は歌では勝てないので、
宮中での歌合せの前夜秘かに小町の邸に忍び込みます。 そして、小町の詠草 『蒔かなくに何を種として浮草の波のうねうね生ひしげるらん』 を盗み聞きし、それを『万葉集』に書き込み、歌合せの席でその草紙を突きつけて小町の歌は盗作だと言いはります。しかし身に覚えのない小町は、一計を案じ白金のたらいに水を汲ませ、草紙を水に浸して洗ってみせました。するとあとから書き入れた部分だけは一字も残らずに消えてしまい、小町は身の潔白を証明することができました。 黒主は自害しようとしますが小町の取りなしで帝も許され、めでたい雰囲気となり、小町は勧められて和歌の徳を讃えた舞を舞います。
トンデモない爺さんですね。
#サント船長の写真
福井駅
今福井県が恐竜で騒がしいですね。

#サント船長の写真 #福井市
祇園祭 大船鉾

大船鉾の始まりは、四条町では「祇園社記」の記事に基づき、嘉吉元年(1441年)の建立とされています。「康富記」の記述から、応永29年(1422年)にはすでに存在したという説もあります。いずれにしても応仁の乱以前からの古い歴史を持っています。その応仁の乱(1467年)には他の山鉾とともに焼失、23年後の明応9年(1500年)に再興したといわれています。しかし、その年の鬮順の記録には出ていないので、完全な復興は数年後かもしれません。その頃は人形だけを乗せた比較的簡素な「舟」でしたが、江戸時代に入り、次第に装飾が加えられ、囃子も加わって、「船鉾」と呼ばれるようになりました。

#サント船長の写真 #祇園祭
祇園祭り神幸祭
京都祇園石段下

#サント船長の写真 #祇園祭り
祇園祭り(日本三大祭り)7月17日に祇園祭りの巡航が有りました。

#サント船長の写真 #祇園祭り
五条天神
此処は牛若丸と弁慶の出会いの地です。
西洞院松原です。
五条大橋は童謡ですね。
#サント船長の写真
どこでもドアが有る神社
京都府は玉田神社です。

京都府久世郡久御山町森宮東1番地
バス停まちの駅イオンモール久御山/京都京阪バスから徒歩12分です、

#サント船長の写真
京都ヘリポート
京都は空港は有りませんが、ヘリポートは有ります、
場所は
京都市伏見区向島柳島1番地です、
因みに京都から東京までヘリ🚁行くと2時間30分です、
新幹線と同じですね。
#サント船長の写真
あやとり橋
石川県加賀市山中温泉河鹿


#サント船長の写真
鉢で育てる三尺バナナ
サント船長が京都のマンションで三年前から育てて居ます。1年目、2年目と日当たりが悪く、育たず実は乗りませんが、三年目の今回は場所を変えました、此のバナナは昨年のバナナで孫にあたります、それを日当たりの良いマンションの玄関に出しました、するとグングンと伸び、今年は実が乗りそうな気配です、三尺バナナとモンキーバナナは同じで、鉢で育てる事が出来ます。そうですね、9月には、実が成るかもです。
もし実が乗れば、実に60年に及ぶオイラの念願です。

#サント船長の写真
長篠設楽が原の戦い
天正3年5月21日、三河国長篠城をめぐって、織田信長・徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000との間で行われた戦い。長篠設楽(ヶ)原の戦い(ながしの したら(が)はらのたたかい)とも呼ばれます。織田軍が新戦法・鉄砲三段撃ちを行った話で有名です。
#サント船長の写真
京都府立植物園のカレー
不味くも無く、飛び切り美味しくもなく、極普通の食堂のカレーですね。そんなカレーが俺等は好きです😊

#サント船長の写真 #京都府立植物園
だるま寺 (江西禅寺)
三重県の鈴鹿市深溝町
願望成就御祈祷だるま
の起源をなす名刹だるま寺

また本寺は、日本達磨会総本部「引法大師霊場に十七番札所」「東海白寺観音霊場十七番札所」です。

#サント船長の写真
荒神山観音寺
慶応二年へ西暦1866年4月8日ばく徒の
神戸の長吉と桑名の穴太徳が縄張り争いから
寺裏山で一死闘をつくしたのが後の世に「荒神山の血煙り」と題した浪曲となって事寺の名をいっそう広めることになりました。
#サント船長の写真
長篠の戦い
長篠の合戦・長篠合戦とも)は、天正3年5月21日現在のグレゴリオ暦に換算すると1575年7月9日)、三河国長篠城(現・愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千人の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った合戦である。
此の写真は馬防御柵ですね。

#サント船長の写真
三井の梵鐘
大晦日、大勢の善男善女で賑わった除夜の鐘。一般には近江八景の「三井の晩鐘」として知られるこの梵鐘は、 「天下の三銘鐘」の一つにも数えられています。 姿の立派な宇治平等院の鐘、由緒の正しい高雄神護寺と、音色の美しさで選ばれた三井寺。 つまり、三井の晩鐘は、日本一の響きであると認められているのです。

此処梵鐘は撞かせて貰えますが、以前は300円でしたが、今は800円でした😅一撞きですよ、しかし、此の鐘は本物かなぁ?デプリカと違うかなぁ。
 「天下の三銘鐘」の鐘ですよ、宇治の平等院はデプリカが釣て有り、本物は保管して居ますね。神護寺は判りません。

#サント船長の写真
弁慶の引き摺り鐘
滋賀県三井寺に有ります。
しかし、此の話は伝説です、

オイラの考えですが、比叡山の僧兵と三井寺の僧兵が争い、比叡山の僧兵が勝ち戦利品として、此の鐘を奪って行きましたが、
三井寺には有名な僧兵が居ます、筒井浄妙坊明秀と一来法師です、
この鐘を取り返しに行きます、しかし、弁慶は山からこの鐘ををほり投げます。
ーーーーーーーー
弁慶は確かに居た方ですが、殆ど謎だらけです、しかし三井寺の筒井浄妙坊明秀は解って居ます、屋敷跡も三井寺に有ります。
7月の京都の祇園祭の後祭りの山鉾に浄妙山が有ります。
此の山をご覧ください、
弓矢に撃たれた筒井浄妙の頭の上を一来法師が飛び越えて行きます。

オイラは筒井浄妙が弁慶で一来法師が牛若丸では無いかと思います。(コレはオイラの考えです)

#サント船長の写真
本多忠勝の像

本多 忠勝は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑として崇められた。
生年月日	1548年3月17日
死亡日	1610年12月3日
配偶者	於久の方
両親	本多忠高
子供	小松姫、本多忠政、本多忠朝

#サント船長の写真  #桑名市 #銅像
七里の渡し 宮宿
七里の渡しは東海道五十三次で知られる宮宿(愛知県名古屋市熱田区)から桑名宿(三重県桑名市)までの海路で、かつての官道。この渡しの宮宿側、または、桑名宿側の渡船場のみを指して「七里の渡し」と呼ぶことも多い。此の写真は宮宿側です。

#サント船長の写真 #東海道五十三次
桑名宗社 春日神社

桑名神社と中臣神社の両社を合わせて「桑名宗社」といい、古来から桑名の総鎮守とされています。1296年に奈良春日大社から春日大明神を勧請して合祀したため、「春日さん」と呼ばれ親しまれています。
江戸時代初期に始まったものといわれる天下の奇祭「石取祭」で知られる神社で、祭車総数43台の山車が一堂に会する、「日本一やかましい祭り」と呼ばれる祭りは絢爛豪華で、「国指定重要無形民俗文化財」にも指定されています。

#サント船長の写真
#桑名市
七里の渡し (桑名市)
七里の渡しは東海道五十三次で知られる宮宿(愛知県名古屋市熱田区)から桑名宿(三重県桑名市)までの海路で、かつての官道。この渡しの宮宿側、または、桑名宿側の渡船場のみを指して「七里の渡し」と呼ぶことも多い。此の写真は桑名側です。
#サント船長の写真 #桑名市 #東海道五十三次
本多忠勝の像 (桑名市)
本多 忠勝は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑として崇められた。

#サント船長の写真 #桑名市
伊勢湾台風時の傷跡が残る鳥居

桑名の春日神社の正面にある青銅製の鳥居。よく見ると柱には伊勢湾台風の時に高潮に船が流されて、その船が当たって、へこんだ傷があり、その傷の由来が鳥居に刻まれています。

#サント船長の写真 #桑名市
石峰寺
伊藤若冲の墓

伊藤若冲は江戸時代中期、正徳六年(1716)二月八日、京都高倉錦小路南東の角にあった青物問屋(あおものといや)「枡屋」(ますや)・通称「枡源」(ますげん)主人・三代目伊藤源左衛門の長男として出生しました。元文三年(1738)若冲二十三歳の頃、父源左衛門が四十二歳で亡くなり、若冲は四代目源左衛門となります。三十代の頃より絵画を志し、宝暦五年(1755)次弟宗厳(そうごん)(白歳)に家督を譲り茂右衛門と改名し画事に専念。当時の京都画壇を代表する画家となりました。

#サント船長の写真 #京都伏見
宝塔寺 京都伏見

室町時代中期に建立されたこの総門(四脚門)をくぐると、100mほどの石畳の参道がまっすぐ、仁王門まで伸びている。その両側には、大雲寺や直勝寺、霊光寺、慈雲院などの塔頭が並んでいるが、宝塔寺の歴史は古く、関白だった藤原基経により、平安時代の845~851年に創建されたと伝えられる。

#サント船長の写真 #京都伏見
瑞光寺 京都伏見

明暦元年(1655)、江戸時代初期の日蓮宗を代表する高僧・元政上人が草庵を結んだことに始まる寺。上人が竹を好んだことから「竹葉庵」とも称される。境内には、縁結び・縁切り祈願の「元政上人の御廟(三本竹の墓)」や財宝の神様「白龍銭洗弁財天」など見どころも多い。また春にはしだれ桜やソメイヨシノが見事に咲き誇り訪れた人々の目を楽しませている。

#サント船長の写真 #京都伏見
元政上人御廟 京都伏見深草
元和9年(1623)2月23日、洛陽一條に能書家で詩文や和歌を詠じ、芭蕉や新井白石から高い評価を受けた日蓮宗僧侶が誕生する。

#サント船長の写真 #京都伏見深草
金戒光明寺の山門
市内を一望できる「山門」は天気の良い日には、大阪のあべのハルカスまで見渡せる山門上からの眺望は絶景です。

#サント船長の写真 #京都が熱い
知恩院 山門
境内が広く7万3000坪もあります。東山の華頂山から山内全体まで広範囲で紅葉を観賞でき、特に国宝の三門周辺や友禅苑の池の周りは見事です。大鐘楼に行く参道も綺麗です。

#サント船長の写真 #京都が熱い
法然院

法然上人が専修念仏の法灯を掲げた名刹。閑静な境内には、本堂・方丈・経蔵・書院・鐘楼が立つ。茅葺きの山門をくぐると、参道両脇に砂盛(白砂壇[びゃくさだん])がある。砂の上に描かれた文様は水の流れを表し、間を通ることで心身を清めることになるという。その奥には美しい池泉式庭園がある。椿の名所としても有名だ。

#サント船長の写真 #京都が熱い
西本願寺と飛雲閣
世界文化遺産飛雲閣は国宝です。
親鸞の御影を安置する御影堂、本堂、南能舞台など江戸桃山期の重文が多い。書院北能舞台、黒書院、飛雲閣唐門は国宝に指定されている。

#サント船長の写真 #京都の世界遺産
#京都が熱い
立木神社
滋賀県草津市草津4-1-3

創建1250余年の歴史を有する古社。称徳天皇の時代に、常陸国(茨城県)の鹿島神宮におられた武甕槌命(たけみかづちのみこと)が旅の途中にこの地に立ち寄り、柿の鞭を刺したところから柿の木が生え、この木を崇めて神殿を建て、社名を立木神社と称したのが始まりと伝わる。

#サント船長の写真
犬塚の欅
いぬづかのけやき
真宗発展の基礎を築いた蓮如(れんにょ)が迫害から逃れ大津にいたとき、誰かが蓮如を殺そうと食膳に毒をもった。この時、彼の愛犬が不思議にもそれを察知し、身代わりに食べ、たちまちのうちに死んだ。蓮如は供養のため犬を手厚く葬り、その地に欅が植えられた。

#サント船長の写真 #旧東海道の旅
三雲城跡の八丈岩
滋賀県甲賀市三雲

“落ちそうで落ちない岩”として、受験生の人気を集めている八丈岩。室町時代後期、三雲典膳が築城したと伝わる三雲城の城址にあり、岩の近くには「合格祈願石」と呼ばれる石が置いてあり、受験シーズンには多くの学生が訪れる。八丈岩は、真田十勇士のひとり、猿飛佐助が修行に使ったという伝説も残る。
#サント船長の写真 #旧東海道の旅
旧東海道の一里塚 
水口の泉地区
江戸幕府は一里ごとに塚を作り、旅人の目印にしました、現在は一里塚も無くなり、此の一里塚はモユメントですね。
しかし此の一里塚は旧東海道に面して居ます、水口宿へ

#サント船長の写真 #旧東海道の旅
横田の常夜灯(水口関)

野洲川のこの辺りを横田川といい、江戸時代の参勤交代等で通行量が増加すると渡し船や渡し賃の制度が整えられました。この「渡し」を物語るのが泉側に立つ常夜燈。往時は夜も通行が絶えず、対岸の渡し場の目印として文政5年(1822年)に建設されたもので東海道随一の規模を誇っています。
現地投稿です。
2023・5月25日12:30
#サント船長の写真 #旧東海道の旅
伊勢の三郎の首塚
三重県四日市川島
此の投稿も現地からの写真投稿です。
2024年5月25日9時10分
#サント船長の写真 #伊勢の三郎
伊勢の三郎物見の松とイボ地蔵
伊勢本街道
此の写真は現地からの此の松を見ながらの投稿写真です。
5代目(写真有り)の松は枯れて、今の松は6代目です。
2024年5月22日09:30

#サント船長の写真 #伊勢の三郎
善峯寺の幸福地蔵尊

此の地蔵さんには、自分の事はお願いは出来ません、他の方の事に付いて、例えば世界平和とか、お友達の病気の事ですね、
俺等は戦争の無い世界と、お友達の宝くじが当たる様、お願いしました♪

#サント船長の写真 #京都が熱い
善峯寺の遊龍の松

遊龍(ゆうりゅう)の松は五葉松で、樹齢600年以上、全長37m、国の天然記念物指定されており、また新日本名木100選にも選ばれている、名実ともに「日本一の松」です。江戸時代、徳川5代将軍綱吉の母・桂昌院が樹齢数百年の五葉松の盆栽を寄進し植えて育てたと伝えられています。

#サント船長の写真 #京都が熱い
エボシ岩 室戸岬


#サント船長の写真 #四国
夫婦岩 室戸岬


#サント船長の写真 #夫婦岩 #四国
潮御崎神社
和歌山県東牟婁郡串本町潮岬
殆ど人が来ないと思います。
やたらと静まり、此の神社に人が来るのかなと思います。

誰かの書き込みにお賽銭を5円入れたら戻ってきた、のでまた入れたら、また戻って来たと書いて有りましたが、コレは神様も少なく過ぎると言って居ますね(笑)参拝者が少ない神社です、願い事も可成り聞いて貰えますにで、お賽銭は奮発しましょう、お賽銭は必ず自分の元に帰りますから。
本州最南端の神社

#サント船長の写真 #こんな所に
潮岬灯台
本州最南端の灯台

#サント船長の写真 #灯台
波切神社
大王崎灯台の隣りにあり、「崖っぷちの神社」と書いて有りましたが、別に崖っぷちでは有りませんでした、しかし、手入れが良く美しい神社でした。

#サント船長の写真 #灯台の隣接神社 #こんな所に
別格本山五智山蓮華寺

蓮華寺は、京都市右京区御室大内にある真言宗御室派の別格本山の寺院。山号は五智山。本尊は阿弥陀如来。キュウリに疫病を封じ込め、病気平癒を祈願するきゅうり封じの法要で知られる。

#サント船長の写真 #石仏
#銅像石像
二見ヶ浦の夫婦岩
三重県伊勢市

#サント船長の写真 #二見ヶ浦
#伊勢市 #夫婦岩
大王崎灯台

熊野灘と遠州灘の荒波を二分する大王崎は、昔から航路の難所だった。そのため昭和2年(1927)、当時としては斬新な造りの円形白塗りの大王埼灯台が建てられた。灯台は今も現役で、赤白交互30秒ごとに閃光を放つ。入口から螺旋階段を登った展望台からの眺望は、すばらしい。
#サント船長の写真 #灯台
滋賀県甲賀市の六角堂
甲南町の象徴的な建造物で、六角堂と呼ばれ広く親しまれているこの地蔵堂は、池田村の大工、中村喜惣治が棟梁となって腕をふるった建物で、天明8年(1788)の棟札の写しが残されています。
六角堂ですが、お地蔵さんが祀られて居ないですね。
此のお堂は変則五差路の中心にあるので、お堂前のバス停留所が移動して居ます。
#サント船長の写真 #こんな所に
伊賀上野城の石垣
三重県伊賀市
藤堂高虎が本丸の西に築いた石垣。高さ約30メートルの高石垣は大阪城と並んで日本一の高さを誇っています。
因みに大阪城の石垣ので高さは31メートル
9枚目の写真は、大阪城の石垣
#サント船長の写真 #城の石垣
東海道関の宿場 (三重県)

江戸時代の町並みを色濃く残す東海道47番目の宿場町「関宿」。江戸から明治期にかけての町屋が約200軒も連なる様子は圧巻で、国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されています。
約1.8kmにも及ぶ関宿は、西の追分からは大和街道が、東の追分からは伊勢別街道がそれぞれ分岐していたため、江戸時代にはこれらの街道を往来する人々でにぎわい、参勤交代や伊勢参りなどの交通の拠点として繁栄していました。

#サント船長の写真 #旧東海道の旅
鈴鹿峠万人講常夜燈
国道1号線鈴鹿トンネル入り口の真上にあります。今から約270年前、鈴鹿峠に建てられた常夜燈です。四国金比羅神社の燈籠で、往来する商人の信者が灯をともしました。石燈籠は重さ38t、高さ5.5mの巨大な物です。
当時はトンネルはなく、山越でした、するとここは、旧東海道なんですね。

#サント船長の写真 #旧東海道の旅
あいの土山 (滋賀県)
東海道五拾三次の宿場
平成3年に甲賀市役所土山支所前国道1号線沿いに建立された、旧宿場町を偲ぶ石灯籠。高さ約10メートル重さがなんと156.8トンもあります。自然石の石灯籠では日本一の大きさを誇る。
夜間はライトアップもされ、現代の常夜灯として人々の安全を祈願しています。甲賀の町のシンボルとして、地域の住民にも深く愛されている石灯籠です。

#サント船長の写真 #旧東海道の旅
信楽駅 (滋賀県)

信楽高原鐵道の終着駅。
信楽高原鐵道の各種手続の他、信楽駅構内にはたくさんの信楽焼たぬきがお出迎えしています。
駅前広場には大たぬきの電話ボックスがあり、町のランドマークとなっています。この大たぬきは季節ごとに衣装替えがおこなわれ、信楽駅を訪れる皆さんをお出迎えしています。

#サント船長の写真
  1 2 3 4 531  

全1961枚のうち( 1 - 65 枚目)を表示