香川県綾川町にある滝宮天満宮には学問の神様、菅原道真が祀られています。合格祈願と聞けば、大宰府天満宮などが有名ですが、ここ香川でも同じご利益を受ける事ができますよ!見どころや、ちょっと変わった行事&スポットもご紹介します。讃岐の国司として道真公が大活躍した、滝宮天満宮へ行ってみましょう!
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学問の神様と呼ばれるスーパーエリート菅原道真について
まず、菅原道真がなぜ学問の神様と呼ばれるようになったのか、そのスーパーエリートな、そして、最後はちょっぴり悲しい人生を簡単に紹介します。
道真公のエリート人生
845年、菅原道真は京都で生まれました。5才で和歌を読み、11才で漢詩を作り、周りから神童と呼ばれたそうです。最年少18才で文章生(もんじょうしょう)つまり、学問を究めるスーパーエリート校の生徒となり、33才で学問の最高位、文章博士(もんじょうはかせ)となり、天才ぶりを発揮します。後、42才の時に讃岐守を任じられ、讃岐国の立て直しに尽力します。
現在の滝宮天満宮がある場所に、官舎があったとされています。
出世街道まっしぐら!
4年間に渡り、讃岐国の立て直しに尽力し、成功した道真公は公任満ちて、京都へと戻ります。帰京後は、中納言(ちゅうなごん)、権大納言(ごんだいなごん)、右近衛大将(うこんえのだいしょう)、右大臣(うだいじん)と出世街道を突き進みます。
しかし、57才の時、天皇を廃そうとしたという濡れ衣を着せられ、大宰府へ左遷されてしまいます。疑いが晴れる事無くそのまま謹慎地の大宰府で亡くなってしまいました。
最後は悲しい終わり方でしたが、文武両道に秀で誠実な人柄の道真公は多くの人から愛されたそうです。讃岐国を去る時は、皆、父母を慕う如く別れを惜しんだと伝えられています。
讃岐と菅原道真の関わりと、滝宮天満宮の歴史
讃岐の国司として大活躍
886年道真公が42才の時、讃岐の国司に任ぜられ、現在の滝宮天満宮がある場所にあった官舎に住む事になりました。赴任後は各地を巡り、人々の生活が良くなるよう尽力します。特に教育には力を注いだそうです。
888年には干ばつが続き、作物ができず苦しむ人々の為に山に登り、七日七夜断食し雨が降るよう祈ると、願いが通じ待望の雨が三日三晩降り続いたそうです。人々は歓喜のあまり、道真公の家に集まり踊りを踊り、感謝を表したそうです。
889年に疫病が流行した際は、道真公自ら病人の家を訪ねて周り薬を渡しました。そして、写経や息災護摩をし祈り、防疫に努めたそうです。道真公の人々を思う気持ちに住民は感涙し、道真公が帰京する際は皆、父母を慕う如く別れを惜しんだそうです。
自身の身を挺して国中を駆けずり回った道真公は、頭が良いだけではなく、人々にとって、心優しく頼もしいスーパーヒーローだったんですね。
948年、道真公が亡くなった後、道真公を偲ぶために、現在の滝宮天満宮が創建されました。
道真公が讃岐で大活躍した当時住んでいた官舎の跡地に建つ滝宮天満宮は、あまり有名ではありませんが、実はエネルギーに満ちた場所かもしれませんね。
立身出世の登竜門
讃岐は道真公が地方で唯一政権を摂った所で、帰京後はこの経験を活かし、大変出世します。そのため、この場所は立身出世の登竜門と言われ、「滝宮天満宮」→「京都」→「大宰府」の順で参拝すると良いとされているそうです。
道真公の様に出世街道を突き進んでみたい方は、試してみてはいかがでしょうか。
『桃太郎』の作者は菅原道真だった!
道真公が在任中、鬼退治の伝説を耳にし、讃岐に伝わる関係遺跡を訪ねました。その言い伝えを『桃太郎』の本にし、寺子屋で子供たちに読み聞かせたそうです。
縁結びの祈願も!道真公とお世話係の恋にちなんだ恋待神社
道真公は側でお世話をしていた女性、お藤さんと恋に落ちます。ふたりが近くの川を散策中に衣をかけていたという松の木は、「恋の袖かけ松」と呼ばれていたそうです。
そんな「松」と同じ音を持つのが、滝宮天満宮境内にある「恋待(松)天神」。こちらに縁結びの絵馬をかけると、願いが叶うとされているそうですよ。恋の成就を願い、待(松)ってみましょう!