京都
京都観光
世界から多くの旅行者が訪れる日本随一の観光都市

京都の旅フォト

第一番札所
六角堂 頂法寺
◎宗派・単立◎如意輪観音菩薩(六角堂 本堂)

御詠歌:わがおもふ こころのうちは むつのかど ただまろかれと いのるなりけり


#サント船長の写真 #洛陽三十三所観音霊場
貴船神社
懐かしい風景
弁慶石 (武蔵坊弁慶)

源義経に仕えていた弁慶が幼少の頃、三条京極界隈に住んでいた時に愛でていたと伝えられる石です。ビルの1階にある大きな石で少し不自然な感じもしましたが、町名も「弁慶石町」となっていて弁慶にゆかりがあることを知ることができます。

此の弁慶石は「国宝上杉本」にも描かれて居ます。

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弁慶石 (武蔵坊弁慶)

武蔵坊 弁慶は、平安時代末期の僧衆。源義経の郎党。 『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。元は比叡山の僧で武術を好み、五条の大橋で義経と出会って以来、郎党として彼に最後まで仕えたとされる。

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弁慶石 (武蔵坊弁慶)

「義経記」や「弁慶物語」などの軍記に記されたエピソードであり、どこまでが事実でどこまでが伝説なのかわからないところがあります。同時代における最も信ぴょう性の高い歴史書「吾妻鏡」には義経の部下のひとりとして記されているだけであり、「武蔵坊弁慶(弁慶法師)」という人物が実在したことは確かですが、出自はおろか何をした人物なのかも全く記されていません。そのため、各種伝説における「武蔵坊弁慶」が、実在した「武蔵坊弁慶」と同一人物なのかどうかは不明です。

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弁慶石 (武蔵坊弁慶)
「上杉本洛中洛外図屏風」
の中に弁慶石が描かれて居ます。
力自慢の町衆が集まり持ち上げる様子が、

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弁慶石 (武蔵坊弁慶)

米沢藩上杉家に受け継がれた「京の都」の日
「上杉本洛中洛外図屏風」は、天正2年(1574年)に織田信長から上杉謙信へ贈られたと伝えられ、以後米沢藩上杉家に伝来したという由来を持ちます。平成7年に国宝に指定されました。 筆者は桃山時代を代表する画家・狩野永徳(かのうえいとく)です。京の都を一望し、洛中(市中)と洛外(郊外)の四季と、そこに暮らす人々の生活風俗を描き込んだものです。上杉本と呼ばれるこの上杉家伝来の屏風は、数ある洛中洛外図の中でも初期に属するもので、豪華に、そして細やかに描かれています。

そんな中に弁慶石が描かれて居ます。

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平家打倒の橋合戦
宇治川橋
此の橋は宇治川の橋です。
1180年(治承4)5月26日。平家打倒を掲げて挙兵した以仁王・源頼政の一向は、三井寺の勢力を頼むも支援は得られず、やも無く、奈良・興福寺へ向かいます。途中、平等院で休息をして居る間に朝廷が派遣した追討軍に追いつかれ、宇治川を挟んで、戦闘が繰り返し行われた。
特に宇治川橋を挟んでの戦いは激戦でした、
コレが「橋合戦」です、実際の軍勢は頼政側が50騎余り、追討軍は三百騎でしたが、平家物語では、それぞれ一千人余りと二万人騎余りに膨れあがり、戦いも華やかに描かれて居ます。
中でも浄妙房や一来法師の活躍は最たる物でした。

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平家打倒の橋合戦
祇園祭 浄妙山

橋合戦の筒井浄妙と一来法師の活躍の場面が祇園祭の浄妙山に登場して来ます。
筒井浄妙は大活躍をしますが、更に同じ僧兵の一来法師が「悪しう候う浄妙坊」と声をかけ、筒井浄妙の頭に手を着いて飛び越えて活躍をします。その場面が祇園祭に浄妙山です。

ですが❗️コレは昔の話しで、実は牛若丸と弁慶の五条大橋の場面ではないか?
次の投稿で書きます。

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勝竜寺城跡
勝龍寺城は、西国街道や京都に通じる要衝に、防衛拠点として築城された。築城は、応仁、文明の乱が起きた室町時代。平安時代に建てられた勝龍寺の一部がこの地の合戦に登場し、戦国時代になると城下町も発展、信長の家臣、細川藤孝によってより堅固な城へと改修され、京都盆地を主に西側地域を支配の拠点となる。


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勝竜寺城跡
”天下分け目の天王山”で知られる「山崎の戦い」で秀吉軍に敗れた光秀は、勝龍寺城に退却し”最期の夜”を過ごしました。光秀が坂本城を目指して脱出したと伝わる勝龍寺城の北門には、当時の石垣や門の礎石が今も遺ります。

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勝竜寺城跡
勝龍寺城は、明智光秀の娘であり、細川忠興の正室でもあった「細川ガラシャ」のゆかりの城でもあります。
天正6年(1578年)、明智光秀の娘・お玉(後の細川ガラシャ)は、織田信長のすすめにより、16歳で勝龍寺城城主・細川藤孝の嫡男・忠興に嫁ぎました。
その後2年間、勝龍寺城で幸福な新婚時代を過ごしたといわれ、歴史とロマンを秘める城として全国的に知られています。

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御霊神社
京かき氷つみき
まだ新しいかき氷屋さんのようです。
今回は食べることができませんでした。
錦市場
暑かったので錦市場に避難💦
梅園 三条寺町店
底にあんこもあります。
スマート珈琲店
パンケーキ🥞もプリンも美味しそうだった。
プチジャポネ (PETIT JAPONAIS)
コーヒーとカシスのケーキをお持ち帰り。
京うな和本店
暑すぎたのでうなぎで体力回復❤️‍🩹
カリッふわっで美味しかった。
月下美人
京都府植物園

月下美人の花には強い香りがあり、花を見なくても、漂い始める香りで咲き始めたことがわかるほど。初夏から秋まで開花を続けますが、連続的に咲くのではなく、2~3回ほどにまとまって開花します。蕾は、大きく育った株の茎葉の各節につきますが、株の栄養状態によっては、しだいに落花してしまうこともあります。
メキシコから中米にかけて分布し、樹木の上に着生して育ちます。近縁種のクジャクサボテンが昼間開花するのに対し、月下美人は夕方から咲き始め、朝にはしぼんでしまいます。なお、姫月下美人(Epiphyllum pumilum)との交配によって‘満月美人’という品種ができています。

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月下美人
京都府植物園


#サント船長の写真
奇想天外(きそうてんがい)
京都府植物園

キソウテンガイ(奇想天外)  は、アフリカ・ナミブ砂漠の固有種で、 グネツム目ウェルウィッチア科ウェルウィッチア属の裸子植物です。 本主だけで、1科1属1種を成します。 
葉は生涯に2枚しか出さず、一生延び続けます。 雌株と雄株が別株の雌雄異株で、雌花、雄花ともに松笠状の形をしています。 花は葉腋に穂状に付きます、 
主根と、スポンジ状(海綿状)の支根が広範囲に広がり地下水を吸収します。 日中極暑で、極少降水量の砂漠地帯で生き延びるため、葉のクチクラ層が厚く、 葉両面に気孔があり大気中の湿気(霧)を吸収すると共に、根から吸い上げた地下水で 葉を冷やしています。 
寿命が長い植物で2,000年生きるとされます。 

#サント船長の写真
奇想天外(きそうてんがい)
京都府植物園


#サント船長の写真
奇想天外(きそうてんがい)
京都府植物園


#サント船長の写真
アゴーラ京都烏丸
新しいホテルで、周りにお店も充実😉
バスタブは無いけど、シャワーブース🚿がとても綺麗で広めです。
高木珈琲 高辻本店
暑くて休憩🍮
永正亭
特田舎そば天ぷら入り🦐
780円
大極殿本舗 六角店 「栖園(せいえん)」
今日は特別暑い1日だったので
かき氷🍧が美味しかった。
赤紫蘇かき氷🍧
鞍馬寺から貴船に向かう途中に義経堂がありました。
初めて鞍馬寺にいきました。
この後の貴船まで山道が大変でした。
ぎをん為治郎
とろ湯葉丼
八ッ橋つき
祇園祭後祭
山鉾巡行
祇園祭後祭
三年ぶりの山鉾巡行、お天気にも恵まれ無事に終わって良かったですね。
京都
晴明神社
晴明桔梗
こちらでは、桔梗が咲いている間だけ付与される御守りがあるようです。
キモノフォレスト
京都ことこと
湯葉丼とおばんざい
味味香@ポルタ店
普段カレーうどんって食べたいと思わないけどここのは好き。麺はわりと太めでもちもち、美味!
京都
瑠璃光院
京都
瑠璃光院
大谷本廟
入り口近くの蓮です。
笠置山
笠置駅
京都
瑠璃光院
写経
京都
瑠璃光院
京都
東本願寺
夜の御影堂門
祇園祭後祭
鷹山
196年ぶりの復活晴れ姿
京都
祇園祭後祭
京都
大谷本廟
古代の蓮(大賀蓮)
京都
大谷本廟
古代の蓮(大賀蓮)
今から二千数百年前の一粒の種から開花させたものを、貰い受けてお育てになられたということです。朝8時半くらいにお参りいたしました。
浄妙山
祇園祭り後祭り
7月17日は祇園祭り先祭りで、7月24日は後の祭りです、その後の祭りの山鉾に浄妙山が有ります、祇園祭りの長刀鉾を始め沢山の山鉾がある中で何故浄妙山が興味深いかと言いますと、筒井浄妙と一来法師で、
特に謎の人物の弁慶なんですね、弁慶は映画・お芝居では、事細かく演じられて居ますが、弁慶の事は殆どなにも判って居ません、判っている事は源義経の家来で有った事だけで、歴史書には弁慶に関する記録がほとんどなく、まして怪力の猛者など書かれたものは存在しません。
そこで目を付けたのが、浄妙山です。
筒井浄妙は三井寺の僧侶で弁慶は延暦寺の僧侶です。延暦寺と三井寺の僧侶は互いに争いが絶えなかったらしい。
弁慶の事は皆様良くご存知ですが。
俺等は筒井浄妙と武蔵坊弁慶とは同じ人物ではと思います(汗)
弁慶(筒井浄妙)と牛若丸(一来法師)の五条大橋 それと筒井浄妙と一来法師の宇治橋で平家から60人以上の兵士から40本以上の矢を身体に射られます、
それが弁慶の立ち往生が有りますね。

#サント船長の写真 #祇園祭り #京都三大祭り
浄妙山
祇園祭り後祭り 筒井浄妙

平家物語の宇治川の合戦です、治承4年(1180)宇治川の合戦に三井寺の僧兵筒井浄妙が橋桁を渡り一番乗りをしようとすると、一来法師がその頭上を飛び越え、「悪しゅう候、御免あれ」と前に進み出て先陣をとってしまったという。御神体(人形)は一来法師が浄妙の頭上を飛び越える一瞬をとらえ木片の楔で一来法師の人形を支えている。黒漆塗の橋桁にも数本の矢がささり戦さのすごさを示している。かつては「悪しゅう候山」とも呼ばれていた。

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浄妙山
祇園祭り後祭り
此の人形は一来法師です、戦いの時筒井浄妙の頭の上を飛び越えて行きます。

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浄妙山
祇園祭り後祭りの浄妙山
宇治橋の戦いの時、筒井浄妙の上を一来法師が飛び越えて行きます。

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浄妙山
祇園祭り後祭り
コレは山に飾られ宇治橋です、無数の矢が射られて居ます。

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京都
祇園祭宵山(後祭)
鞍馬寺。奥の院魔王殿。本堂からはかなり山奥に進んだ場所にあります。ここまで行くのはかなり大変です。
鞍馬寺。狛犬ではなくて虎が守ってくれています。
鞍馬寺の山門。
鞍馬天狗でしょうか?
本能寺のお堂の柱の断面形状は丸ではなくて八角形って珍しい感じがしました。
鷹山
祇園祭り後祭り
【鷹山について】
①鷹山は応仁の乱以前から巡行していた由緒のある山鉾で、「くじとらず」の大きな曳山でした。御神体は鷹匠、犬飼、樽負の御三方で、中納言在原行平様が光孝天皇の御幸で鷹狩りをする場面です。鷹山も他の山鉾と同じく幾多の災害にあいながらも七転び八起きで立ち上がってきました。そして鷹山は他と競いあうようにして豪華になり、江戸時代後期には黒漆塗で破風裏は金という華麗な屋根を持つ曳山になりました。

#サント船長の写真
鷹山
祇園祭り後祭り

②文政9(1826)年の巡行で大雨にあって懸装品を汚損したことを理由に、翌年から加列しなくなりました。
それから現在まで約190年もの間、御神体をお飾りする居祭を三条通室町西入の町家等で続けてきました。
近年、復興の気運が高まり、2014年に鷹山囃子方、2015年5月に一般財団法人鷹山保存会を設立いたしました。そして2016 年1月に公益財団法人の認定されました。


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鷹山
祇園祭り後祭り


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鷹山
祇園祭り後祭り


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