函館の人気観光地である「元町・函館山エリア」は、旧イギリス領事館、旧函館区公会堂、八幡坂、函館ハリストス正教会など、多くの見どころが集中している地域です。「旧相馬邸」は、この人気エリアの中で、函館市内の建物や歴史の概要を掴むことができる歴史的建築物であり、是非訪れてほしいイチオシの施設です。
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旧相馬邸とは?
函館が開港されてから、外国人等も居留するなど、函館で最初に栄えた場所が、教会群・史跡が数多く点在する函館西部地区。そのエリアで穴場的な建物が、旧イギリス領事館を見下ろす位置に建っており、北海道屈指の豪商・初代相馬哲平氏が明治41(1908)年に私邸として建て、5代目までが住んでいた和洋折衷の品格漂う歴史的建造物「旧相馬邸」です。
旧相馬邸の場所は?
函館駅から行く場合の道順は、市電(函館駅前電停 → 函館どっく前行き)に乗り、「末広町電停」を下車。函館山の方向を見上げるとブルーグレーとイエローの外観の建物「旧函館区公会堂」が見えるので、函館観光名所の1つである基坂(写真左の信号のあるほうの道)を旧函館区公会堂に向かって登っていきます。
旧イギリス領事館と元町公園の間の道を通ると旧相馬邸の塀が見えてきます。市電「末広町電停」から徒歩約5分の場所です。
旧相馬邸の主な注目ポイント
- [1]初代相馬哲平氏の生涯と家訓
- [2]建築の専門家も注目!一級建材や輸入品をふんだんに使用した建物(全国から一級品といわれる銘木を使用、海外からも高級ガラス・調度品等を輸入など)
- [3]欄間や釘隠し、障子枠などの意匠技術
- [4]来客用洋室の彫刻等と「旧函館区公会堂」の類似性
- [5]当時としては珍しい!お客様への気配りとしての工夫
- [6]国内では函館だけ!民家の下に「旧イギリス領事館」
- [7]ブラタモリで放送!大火で焼けた柱が保存され、専門家も大注目の「函館大火資料室」
- [8] 土蔵の中を探索!約270年前の様子を忠実に写した江差屏風の展示は必見!(毎年8月~9月のみ本物を展示。他の月は複製を展示)
- [9]函館湾を一望できる「カフェ元町」で休憩はいかが?
では早速、注目ポイント順に見ていきましょう。
[1]初代相馬哲平氏の生涯と家訓
概略
初代相馬哲平氏は、天保4(1833)年に越後国荒井浜(現・新潟県北蒲原郡乙村大字荒井浜)で二男として誕生し、大正10 (1921)年88歳で幕を閉じるまで、度重なる大火や多くの戦争をくぐり抜け、郷土報恩の精神から多くの公共事業に貢献し、函館発展の礎を築いた人物の一人です。
初代相馬哲平氏の生涯
初代相馬哲平氏は、越後国(現・新潟県)で生まれました。近隣村出身の岩船屋春蔵氏を頼りに28歳で箱館(現・函館)に渡り、約3年の奉公人生活の末、米穀雑貨の店を始めました。箱館戦争時には戦火から避難するため、店をたたむ人、逃げていく人から、全財産を投じて米を買い集め、戦後に米穀の価格高騰により巨額の富を得ました。
その巨利を元手に金融業を始め、当時は危険が多かったことから銀行がなかなか融資してくれず、困っていた漁師のために漁業資金の融資を行い、この評判が口コミで広がり、北海道各地や本州からも融資を依頼してくる人が後を絶たなかったそうです。
また、函館は大火が頻繁に起こり、多くの公共施設等が焼失した際は、再建費用の寄付などで多大な貢献をしたことが多くの書籍で語り継がれています。
初代相馬哲平氏は、大正7(1918)年に発行された「金満家番附」では取締になるほどの豪商となっていました。
函館は、銅像にもなっている高田屋嘉兵衛氏から始まり、成功した民間経済人の方々が個人の財産をつぎ込んで街の基盤を支援してきました。初代相馬哲平氏も同様に函館発展に寄与した人物です。
相馬家の家訓
このように波瀾の時代を駆け抜け、函館発展の礎を築いた初代哲平氏は、晩年、自身の経験を基に家訓を残し、2代目哲平氏(代々の当主が「哲平」を襲名)も家訓を守り、相馬家と地域の繁栄に尽力したそうです。
家訓の最初にあるように当主の部屋には立派な神棚があり、北海道最古の神社である「船魂神社」と相殿に奉られている「愛宕神社」が祀られています。
家訓の2番目には、勤倹と書かれているとおりで、当主の部屋には囲炉裏がありますが、他の部屋は火鉢だけだったことから、囲炉裏の暖かい空気が2階も温める工夫をしてあります。
[2]建築の専門家も注目!一級建材や輸入品をふんだんに使用した建物
館内に使用されている一級建材
館内で使用している建材は、節や傷などが一切入っていない、非常に良い部分だけを使うという贅沢な木の使い方をしています。また、海外から高級ガラスや調度品を輸入して使用している建物でもあります。
その理由は、明治40(1907)年に起こった大火の直後に、復興のシンボルとして建てたことによります。本来の初代相馬哲平氏は、質素倹約を徹底していた人でしたが、大火後、焼け出された市内の人々は簡単なバラック小屋を建てて生活していたので、いち早く、当時一級品といわれる銘木を全国から買い集め、多くの人を雇って資金を還元するために建てた家といわれています。
現在は手に入らない贅沢な建材をふんだんに使用していることから、建築の専門家にも注目されている建物です。
洋室に見られる高級ガラスや調度品
海外から取り寄せた高級ガラスや、調度品をふんだんに使用している洋室も見ごたえがあります。この洋室は大切なお客様を接待するためのお部屋で、美智子皇后陛下のご両親、正田ご夫妻もお見えになり、このお部屋で接待した記録が残っているそうです。
洋室の取っ手は、当時ヨーロッパで流行っていたガラスで、ライトを当てると発光します。
柄の入ったガラスは、当時の日本では、まだ造ることが出来なかったそうです。洋室の壁に付けられたガラスは海外からの輸入品で、大きさから考えても大変高価な品だったことが分かります。このガラスの向こう側は廊下になっており、洋室の明かりで廊下を照らす効果がありました。