弁慶石 (武蔵坊弁慶)
「上杉本洛中洛外図屏風」
の中に弁慶石が描かれて居ます。
力自慢の町衆が集まり持ち上げる様子が、

#サント船長の写真 #武蔵坊弁慶
弁慶石 (武蔵坊弁慶)

米沢藩上杉家に受け継がれた「京の都」の日
「上杉本洛中洛外図屏風」は、天正2年(1574年)に織田信長から上杉謙信へ贈られたと伝えられ、以後米沢藩上杉家に伝来したという由来を持ちます。平成7年に国宝に指定されました。 筆者は桃山時代を代表する画家・狩野永徳(かのうえいとく)です。京の都を一望し、洛中(市中)と洛外(郊外)の四季と、そこに暮らす人々の生活風俗を描き込んだものです。上杉本と呼ばれるこの上杉家伝来の屏風は、数ある洛中洛外図の中でも初期に属するもので、豪華に、そして細やかに描かれています。

そんな中に弁慶石が描かれて居ます。

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平家打倒の橋合戦
宇治川橋
此の橋は宇治川の橋です。
1180年(治承4)5月26日。平家打倒を掲げて挙兵した以仁王・源頼政の一向は、三井寺の勢力を頼むも支援は得られず、やも無く、奈良・興福寺へ向かいます。途中、平等院で休息をして居る間に朝廷が派遣した追討軍に追いつかれ、宇治川を挟んで、戦闘が繰り返し行われた。
特に宇治川橋を挟んでの戦いは激戦でした、
コレが「橋合戦」です、実際の軍勢は頼政側が50騎余り、追討軍は三百騎でしたが、平家物語では、それぞれ一千人余りと二万人騎余りに膨れあがり、戦いも華やかに描かれて居ます。
中でも浄妙房や一来法師の活躍は最たる物でした。

#サント船長の写真 #五条大橋
平家打倒の橋合戦
祇園祭 浄妙山

橋合戦の筒井浄妙と一来法師の活躍の場面が祇園祭の浄妙山に登場して来ます。
筒井浄妙は大活躍をしますが、更に同じ僧兵の一来法師が「悪しう候う浄妙坊」と声をかけ、筒井浄妙の頭に手を着いて飛び越えて活躍をします。その場面が祇園祭に浄妙山です。

ですが❗️コレは昔の話しで、実は牛若丸と弁慶の五条大橋の場面ではないか?
次の投稿で書きます。

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勝竜寺城跡
勝龍寺城は、西国街道や京都に通じる要衝に、防衛拠点として築城された。築城は、応仁、文明の乱が起きた室町時代。平安時代に建てられた勝龍寺の一部がこの地の合戦に登場し、戦国時代になると城下町も発展、信長の家臣、細川藤孝によってより堅固な城へと改修され、京都盆地を主に西側地域を支配の拠点となる。


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勝竜寺城跡
”天下分け目の天王山”で知られる「山崎の戦い」で秀吉軍に敗れた光秀は、勝龍寺城に退却し”最期の夜”を過ごしました。光秀が坂本城を目指して脱出したと伝わる勝龍寺城の北門には、当時の石垣や門の礎石が今も遺ります。

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勝竜寺城跡
勝龍寺城は、明智光秀の娘であり、細川忠興の正室でもあった「細川ガラシャ」のゆかりの城でもあります。
天正6年(1578年)、明智光秀の娘・お玉(後の細川ガラシャ)は、織田信長のすすめにより、16歳で勝龍寺城城主・細川藤孝の嫡男・忠興に嫁ぎました。
その後2年間、勝龍寺城で幸福な新婚時代を過ごしたといわれ、歴史とロマンを秘める城として全国的に知られています。

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月下美人
京都府植物園

月下美人の花には強い香りがあり、花を見なくても、漂い始める香りで咲き始めたことがわかるほど。初夏から秋まで開花を続けますが、連続的に咲くのではなく、2~3回ほどにまとまって開花します。蕾は、大きく育った株の茎葉の各節につきますが、株の栄養状態によっては、しだいに落花してしまうこともあります。
メキシコから中米にかけて分布し、樹木の上に着生して育ちます。近縁種のクジャクサボテンが昼間開花するのに対し、月下美人は夕方から咲き始め、朝にはしぼんでしまいます。なお、姫月下美人(Epiphyllum pumilum)との交配によって‘満月美人’という品種ができています。

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月下美人
京都府植物園


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奇想天外(きそうてんがい)
京都府植物園

キソウテンガイ(奇想天外)  は、アフリカ・ナミブ砂漠の固有種で、 グネツム目ウェルウィッチア科ウェルウィッチア属の裸子植物です。 本主だけで、1科1属1種を成します。 
葉は生涯に2枚しか出さず、一生延び続けます。 雌株と雄株が別株の雌雄異株で、雌花、雄花ともに松笠状の形をしています。 花は葉腋に穂状に付きます、 
主根と、スポンジ状(海綿状)の支根が広範囲に広がり地下水を吸収します。 日中極暑で、極少降水量の砂漠地帯で生き延びるため、葉のクチクラ層が厚く、 葉両面に気孔があり大気中の湿気(霧)を吸収すると共に、根から吸い上げた地下水で 葉を冷やしています。 
寿命が長い植物で2,000年生きるとされます。 

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奇想天外(きそうてんがい)
京都府植物園


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奇想天外(きそうてんがい)
京都府植物園


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鍵屋の辻

鍵屋の辻の決闘は、寛永11年11月7日に渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った事件。伊賀越の仇討ちとも言う。曾我兄弟の仇討ちと赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちの一つ。


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鍵屋の辻

荒木 又右衛門(あらき またえもん、慶長4年(1599年) - 寛永15年8月28日(1638年10月5日))は、江戸時代初期の武士、剣客。名は保知(やすとも)、保和とも。鍵屋の辻の決闘での活躍で名高い。新陰流の剣豪。大和郡山藩の剣術師範を務める。

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鍵屋の辻


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鍵屋の辻
数馬茶屋
此の部屋は何か座敷童が出そうですね。
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鍵屋の辻
伊賀市 数馬茶屋

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中山千枚田(小豆島)
小豆島の真ん中、中山地区には、「日本の棚田百選」にも選ばれた
約800枚の大小の田んぼがあります。

早稲田の1つ1つに大きく小さく空が映り、
初秋には黄金色に輝く稲穂が頭を垂れます。

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中山千枚田(小豆島)


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中山千枚田(小豆島)


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中山千枚田(小豆島)
こまめ食堂


小豆島のまん中あたりの千枚田のまん中あたり
『こまめ食堂』は小豆島のまん中あたりの千枚田のまん中あたりにある島の食文化を伝えるお店。元々は2010年の夏に開幕した『瀬戸内国際芸術祭』のオフィシャルショップとしてつくったお店でしたが、芸術祭閉幕後はプロジェクト解散と共にお店もクローズ。


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中山千枚田(小豆島)


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浄妙山
祇園祭り後祭り
7月17日は祇園祭り先祭りで、7月24日は後の祭りです、その後の祭りの山鉾に浄妙山が有ります、祇園祭りの長刀鉾を始め沢山の山鉾がある中で何故浄妙山が興味深いかと言いますと、筒井浄妙と一来法師で、
特に謎の人物の弁慶なんですね、弁慶は映画・お芝居では、事細かく演じられて居ますが、弁慶の事は殆どなにも判って居ません、判っている事は源義経の家来で有った事だけで、歴史書には弁慶に関する記録がほとんどなく、まして怪力の猛者など書かれたものは存在しません。
そこで目を付けたのが、浄妙山です。
筒井浄妙は三井寺の僧侶で弁慶は延暦寺の僧侶です。延暦寺と三井寺の僧侶は互いに争いが絶えなかったらしい。
弁慶の事は皆様良くご存知ですが。
俺等は筒井浄妙と武蔵坊弁慶とは同じ人物ではと思います(汗)
弁慶(筒井浄妙)と牛若丸(一来法師)の五条大橋 それと筒井浄妙と一来法師の宇治橋で平家から60人以上の兵士から40本以上の矢を身体に射られます、
それが弁慶の立ち往生が有りますね。

#サント船長の写真 #祇園祭り #京都三大祭り
浄妙山
祇園祭り後祭り 筒井浄妙

平家物語の宇治川の合戦です、治承4年(1180)宇治川の合戦に三井寺の僧兵筒井浄妙が橋桁を渡り一番乗りをしようとすると、一来法師がその頭上を飛び越え、「悪しゅう候、御免あれ」と前に進み出て先陣をとってしまったという。御神体(人形)は一来法師が浄妙の頭上を飛び越える一瞬をとらえ木片の楔で一来法師の人形を支えている。黒漆塗の橋桁にも数本の矢がささり戦さのすごさを示している。かつては「悪しゅう候山」とも呼ばれていた。

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浄妙山
祇園祭り後祭り
此の人形は一来法師です、戦いの時筒井浄妙の頭の上を飛び越えて行きます。

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浄妙山
祇園祭り後祭りの浄妙山
宇治橋の戦いの時、筒井浄妙の上を一来法師が飛び越えて行きます。

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浄妙山
祇園祭り後祭り
コレは山に飾られ宇治橋です、無数の矢が射られて居ます。

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鷹山
祇園祭り後祭り
【鷹山について】
①鷹山は応仁の乱以前から巡行していた由緒のある山鉾で、「くじとらず」の大きな曳山でした。御神体は鷹匠、犬飼、樽負の御三方で、中納言在原行平様が光孝天皇の御幸で鷹狩りをする場面です。鷹山も他の山鉾と同じく幾多の災害にあいながらも七転び八起きで立ち上がってきました。そして鷹山は他と競いあうようにして豪華になり、江戸時代後期には黒漆塗で破風裏は金という華麗な屋根を持つ曳山になりました。

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鷹山
祇園祭り後祭り

②文政9(1826)年の巡行で大雨にあって懸装品を汚損したことを理由に、翌年から加列しなくなりました。
それから現在まで約190年もの間、御神体をお飾りする居祭を三条通室町西入の町家等で続けてきました。
近年、復興の気運が高まり、2014年に鷹山囃子方、2015年5月に一般財団法人鷹山保存会を設立いたしました。そして2016 年1月に公益財団法人の認定されました。


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鷹山
祇園祭り後祭り


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鷹山
祇園祭り後祭り


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鷹山
祇園祭り後祭り


#サント船長の写真
高山右近像 ⑤フィリピン 
1613年(慶長18年)12月、キリシタン禁教令を発し、1614年(慶長19年)1月17日、62才?、右近は国外追放となり、26年間過ごした加賀を立ち去り、京都所司代に引き渡され、その後、大阪から船で長崎に護送され、家族と共に長崎からガリオタ船に乗り、同年12月21日、マニラに到着しました。彼の宣教活動は海外にも伝わっており、スペイン人のフィリピン総督から歓迎されました。が、マニラ到着から45日後、1615年(慶長20年)2月3日、63才?、熱病のため死去した。

#サント船長の写真     #高山右近像
高山右近像 ④小豆島カトリック教会
右近は改易により領地をすべて没収され、1588年(天正16年)5月、36才?、肥後(熊本)に転封(てんぽう)となったキリシタン大名、小西行長(1558~1600)に庇護され、小豆島や肥後などに隠れ住む。

#サント船長の写真     #高山右近像
高山右近像 ③高岡城跡
加賀初代藩主、前田利家の客将(きゃくしょう)となり、1万5千石の扶持を受け、加賀、能登の地で26年間過ごすことになります。その間、秀吉の小田原攻めに功績を上げ、金沢城の修築、高岡城(富山)の築城などにも貢献しました。この頃は、利家が金沢に入城してまだ5年、金沢城は築城途中でした。

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高山右近像  ② 高山右近記念公園
石川県志賀町
石川県羽咋郡志賀町にある記念公園。
代表的なキリシタン大名といえばほとんどの方が高山右近を挙げると思いますが、人徳の人として知られ、領内の住民だけでなく蒲生氏郷・黒田孝高・小西行長などの名将までも影響を受けてキリシタンとなっています。

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高山右近像 ①高槻城跡
大阪府高槻市
高槻城は高山右近の最初城ですね。
現在高山右近像は日本に4体、フィリピンに1体の5体有ります、コレは高山右近が関係する所です。

高山 右近 / 高山 重友は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名である。代表的なキリシタン大名として知られ、カトリック教会の福者でもある。 父は摂津国人・高山飛騨守、母は洗礼名マリア。同じく摂津国人の中川清秀は従兄弟とされる。

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伏見桃山城
此の城は近鉄観光が伏見桃山台に建設した観光伏見桃山城です。
今は京都市が管理して居ますが、多分今は立ち入り禁止かな?

#サント船長の写真 #お城巡り
伏見桃山城
多分、豊臣秀吉が建てた伏見城を真似た物と思いますが、元の伏見城の跡地建てた物では有りませので、資料館ですね。

#サント船長の写真 #お城巡り #城跡
伏見桃山城


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伏見桃山城


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伏見桃山城
加藤清正の腰掛け石
多分此の石はどこぞで調達した石でしょうね、此処は桃山キヤスルランドとしてオープンして遊園地でした、俺等も若い時から良く来ました、此の石は間も無く此のツツジに飲み込まれるでしよね。

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五香湯
京都市五条大宮
此処は京都市内でもかなり大きな銭湯です、2階にサウナ室と水風呂と岩盤浴が有ります。
此処に毎日の様に来ます。大好きな銭湯です。
此の銭湯は可成り有名で、まず表玄関をパチリ、回りを見て徐に中に、はい、そうです銭湯♨️巡りの方が可成り多いですね、それも女性の方がね、
#サント船長の写真
五香湯
京都市五条大宮
今の俺等の楽しみは此の銭湯に来てサウナに入る事ですね、俺等の今の隠れ家から僅かですね、自転車なら2分かかるかな?

#サント船長の写真
五香湯
サウナ室で、高温と低温室が有り、俺等は此の低温室に一回10分間を6回水風呂と交互に入ります♪
サウナ室から水風呂に入ると、何もかも忘れ、此の爽快感が堪らず、毎日来ます。

#サント船長の写真
五香湯
京都市五条大宮
五香湯と言いますから、沢山の湯船が有ります、此の他に4つ有りますね。

#サント船長の写真
五香湯
薬湯

#サント船長の写真
ねぶたの家 ワ・ラッセ


#サント船長の写真 #青森県 #ねぶた
ねぶたの家 ワ・ラッセ


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ねぶたの家 ワ・ラッセ


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ねぶたの家 ワ・ラッセ


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ねぶたの家 ワ・ラッセ


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京都祇園祭り鉾町 菊水鉾

コンコンチキチン、コンチキチン。祇園囃子とともに、7月の京都は祇園祭一色。祇園祭は千年以上の歴史を持ち、7月1日(吉符入)から31日(疫神社夏越祭)まで、1か月にわたって多彩な祭事が行われる八坂神社の祭礼です。なかでも17日(前祭)と24日(後祭)の山鉾巡行、そしてそれぞれの宵山には大勢の人々が訪れ、京のまちは祭りの熱気に包まれます。

#サント船長の写真 #祇園祭り
京都祇園祭り鉾町 月鉾

開催期間:7月1日~31日
[山鉾巡行]
前祭:7月17日 / 後祭:7月24

#サント船長の写真 #祇園祭り
京都祇園祭り鉾町 菊水鉾

令和4年の山鉾巡行につきましては、本来の形で催行することが決定されました。
※緊急事態宣言及びまん延防止等重点措置が発出された場合は、計画の大幅な見直しや再検討が行われます。
※祇園祭へお越しの際は、基本的な感染症対策と熱中症対策を十分に行ってください。

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京都祇園祭り鉾町



#サント船長の写真 #祇園祭り
京都祇園祭り鉾町 長刀鉾



#サント船長の写真 #祇園祭り
愛宕山電鉄跡
京都愛宕山登山ケーブル

太平洋戦争末期の昭和19年(1944)、日本の敗戦が濃厚になり、愛宕山ケーブルは「不要不急鉄道」とされ、鉄供出のために廃線となってしまう。それから約70年の時を経て、今では幻の鉄道として廃線マニアたちの密かな人気スポットとなっている。


#サント船長の写真
愛宕山電鉄跡
京都愛宕山登山ケーブル


#サント船長の写真
愛宕山電鉄跡
京都愛宕山登山ケーブル
今も残る線路跡、良く見ないと判らないのですが、偶々これに蹴躓きました。


#サント船長の写真
愛宕山電鉄跡
京都愛宕山登山ケーブル
愛宕山登山道入り口から登り始め左手に見えて来ます。

#サント船長の写真
愛宕山電鉄跡
京都愛宕山登山ケーブル
愛宕山登山道から見える、遺構


#サント船長の写真
丸亀城
標高約66mの亀山に築かれた平山城で、別名亀山城と呼ばれています。本丸・二の丸・三の丸・帯曲輪・山下曲輪があり、東西約540m・南北約460mのうち内堀内の204,756m2が史跡範囲です。「石の城」と形容されるその名のとおり、丸亀城は石垣の名城として全国的に有名です。大手門から見上げる天守は威厳に満ち、夕暮れの天守は優しさをまとって、心を和ませます。400年の時を経た今日でも決して色あせることなく、自然と調和した独自の様式美をはっきり現在に残しています。(公財)日本城郭協会が選定した「日本100名城」にも選ばれ、花見や散歩など市民の憩いの場として親しまれています。



#サント船長の写真 #現存する木造の天守閣 #お城巡り #城跡
丸亀城



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丸亀城
丸亀市の中心市街地の始まりは、慶長2年(1597年)、生駒親正(いこまちかまさ)・一正(かずまさ)による亀山への築城に始まります。このころの城造りは、織田信長の築いた安土城や豊臣秀吉が築いた大坂城を手本に、城郭だけでなく武家屋敷や城下町までも濠や土を盛った土塁(どるい)で囲み防御した「総構(そうがまえ)」となっています。生駒氏は慶長6年(1601年)に宇多津より人を移住させています。今の御供所町、北平山町、西平山町です。慶長20年(1615年)、大坂夏の陣により豊臣氏が滅び、徳川氏の天下となります。徳川幕府は武家諸法度を制定し規制を行います。元和元年(1615年)の一国一城令により生駒氏は、高松城を残し、丸亀城を廃城しました。


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