金沢城公園


#サント船長の写真 #金沢城
鳥羽の大石

伏見の鳥羽街道沿い、鴨川の河原に忽然と現れる巨石群。古代文明の遺跡か?はたまた信仰の聖地の御神体か?その謎の答えは、二条城の城郭石材として利用される予定であった、いわゆる「残念石」でした。

鳥羽街道から鳥羽の大石がある河原に降りる場所にある由緒が記されている看板です。河原を公園化する整備事業の際に川底に眠っていたものが数百年の時を経て偶然にも発見されたのこと。
この石材は寛文2年(1662年)に京都を中心に発生した大地震で被害を受けた二条城の石垣の修復のため大阪(大坂)から淀川を船で遡り、当時の京都の水運の玄関口である「鳥羽の港」に陸揚げされ運ばれる予定の石が、何らかの原因で鴨川の川底に沈み現代まで眠っていた説が有力です。

#サント船長の写真 #残念石 #城の石垣
熊野磨崖仏
その昔、鬼が一夜で築いたといわれる急勾配の石段。それを登ると突然左に不動明王、右に大日如来が彫られた巨大石壁が現れる。
まぁ〜幾ら鬼が一夜で造り上げた石の🪨階段ですが、高齢者の事を考えづに造りましたね、歩き難いは、登り難いはしんどいは、大変な石段です😰
大分県豊後高田市田染平野2581

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化野念仏寺

化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)は、京都市右京区嵯峨鳥居本化野町にある浄土宗の寺院。山号は華西山。本尊は阿弥陀如来。化野は東山の鳥辺野(とりべの)、洛北の蓮台野と並ぶ平安時代以来の墓地であり、風葬の地として知られる。

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あぶり餅 一文字屋

京都府京都市北区紫野に鎮座する今宮神社の境内。
神社参拝で参道を行きかう人に、炭火で餅をあぶりながら「おこしやすぅ~」と声を掛けるお店の、一文字屋和輔は一和(いちわ)とも呼ばれ、今宮神社の門前名物となっています。
いかにも風情があり、京都らしさを実感できるお店は、京都を旅行しているという気分を最高に盛り上げてくれます。

#サント船長の写真
芳春院 大徳寺の塔頭

芳春院(ほうしゅんいん)は、京都府京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派の寺院。同派大本山大徳寺の塔頭である。大徳寺の塔頭の中では最も北に位置する。通常は公開されていない。

慶長13年(1608年)に玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)を開祖として加賀百万石の祖・前田利家の夫人・松子(まつ、芳春院)が建立。法号をとって芳春院と名付け、前田家の菩提寺とした。寛政8年(1796年)の火災により創建当時の建物が焼失するが、二年後に前田家十一代の前田治脩によって再興された[1]。明治期には廃仏毀釈の嵐の中で荒廃するが、明治8年(1875年)になってようやく復興される。

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弁慶鏡井戸
書写山圓教寺(書写山円教寺、しよしやざん、えんぎょうじ)に有る謎の多い弁慶のまつわる井戸です。

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圓教寺(円教寺、えんぎょうじ)は、兵庫県姫路市書写にある天台宗の別格本山の寺院。
此処は映画の撮影場所でも良く使われる所ですね、中で有名なのはラストサムライですね。

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書寫山圓教寺
西国二十七番札所

圓教寺(円教寺、えんぎょうじ)は、兵庫県姫路市書写にある天台宗の別格本山の寺院。山号は書寫山(書写山)。本尊は如意輪観世音菩薩。西国三十三所第27番札所。宗教法人としての名称は常用漢字体の「円教寺」である。

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鵜川四十八体石仏群

白鬚浜付近で国道161号線を旧西近江路に折れ北進すると、草深い山中の墓地に、花崗岩石で作られた高さ1.6mの阿弥陀如来像群が見られます。この仏像群は、室町時代後期に観音寺城(現安土町)城主の佐々木六角義賢が亡き母の菩提を弔うため、観音寺から見てちょうど対岸にあたる高島市鵜川(うかわ)に建立したものです。東を向いて静かに並んで座っている石仏は、大きさも少しずつ異なり、慈愛に満ちた顔・あどけない顔・ユーモラスな顔など、姿もそれぞれ異なっています。現在、鵜川に33躰、大津市坂本の慈眼堂に13躰が、それぞれ安置されており、残り2躰は行方知れずになっています。


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鵜川四十八体石仏群


 白鬚神社から北へ旧西近江路を約600m進むと、高さ1.6mに及ぶ石仏群が見られます。天文22年(1553年)観音寺城(安土町)城主佐々木六角義賢が亡き母の追善のため、対岸の地(高島市鵜川)に48体の阿弥陀如来座像を建立したものと言われています。様式は室町時代の作風を示す花崗岩質の阿弥陀如来坐像で、一体一体が個性溢れる表情をし、琵琶湖に向かって(観音寺城、安土町の方角)静かに並座しています。48体あった石仏のうち13体が大津市坂本の慈眼堂に移され、2体は行方不明となっており、現在は33体が残っています。

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鵜川四十八体石仏群


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鵜川四十八体石仏群


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鵜川四十八体石仏群


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祇園白川新橋
新橋通り

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祇園白川新橋


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祇園白川新橋


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祇園白川新橋


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祇園白川新橋


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愛宕山電鉄後


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愛宕山電鉄跡


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愛宕山電鉄跡


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愛宕山電鉄跡


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愛宕山電鉄跡


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愛宕山電鉄跡


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第五番札所
新長谷寺(真如堂)
◎宗派・天台宗◎十一面観音菩薩(新長谷寺

陽成天皇(八七七~八八四)の御世、越前守藤原高房卿が、西国に赴く途中、一人の漁師が大亀を殺そうとしているところを、助けてやりました。翌朝航海中に、海が荒れ、子供が海に転落しました。救助不能な 荒波の中、昨日の大亀が子供を背中に乗せて救出し無事でした。

時を経て、その子が中納言藤原山蔭卿となり、妻と一子の家庭を築きますが、妻が病死し、後妻を迎えます。後妻は自分の子の出産後、先妻の子が疎ましくなり、太宰府長官赴任の船旅中、その子を海に突き落とします。悲嘆にくれた山蔭卿がその子を探していると、以前自分を助けてくれた大亀が、その子をも救ってくれました。

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第五番札所
新長谷寺(真如堂)
◎宗派・天台宗◎十一面観音菩薩(新長谷寺


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第五番札所
新長谷寺(真如堂)
◎宗派・天台宗◎十一面観音菩薩(新長谷寺

御詠歌:いくたびも まいるこころは はせいでら やまもちかいも ふかきたにかわ

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第五番札所
新長谷寺(真如堂)
◎宗派・天台宗◎十一面観音菩薩(新長谷寺


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第五番札所
新長谷寺(真如堂)
◎宗派・天台宗◎十一面観音菩薩(新長谷寺


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第四番札所
革堂行願寺


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第四番札所
革堂行願寺

創建当時は一条通りにありました。
戦乱や火災でいくたびも焼け、場所を替えつつも、人々の熱烈な信仰によってつねに都の中心部に再建されました。


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第四番札所
革堂行願寺

第18番札所の六角堂と並んで京都の中心部にあるのが第19番札所の革堂。正式には行願寺といい、山門をくぐるとすぐ正面に本堂がある。

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第四番札所
革堂行願寺

此のお寺は京都七福神人の寿老人

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第四番札所
革堂行願寺



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第三番札所
護浄院(清荒神)
◎宗派・天台宗◎准胝観音菩薩(観音堂)


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第三番札所
護浄院(清荒神)
◎宗派・天台宗◎准胝観音菩薩(観音堂)

御詠歌:あらたかや こうじんどうの じゅんていは いのらばりやく さづけたもうぞ


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第三番札所
護浄院(清荒神)
◎宗派・天台宗◎准胝観音菩薩(観音堂)

護浄院は通称清荒神といい、本堂には『清三宝大荒神尊』をお祭りしています。後小松天皇の勅命により摂津国勝尾山から京都の高辻堀川に移され、その後、後陽成天皇が王城(御所)の巽(東南)の方角を守護するため豊臣秀吉に命じて現在の地に移されました。当院は代々勅願寺であり、寺名は東山天皇が御所の浄域を護るようにと『護浄院』と命名されたものです。現在も日々天皇皇后両陛下をはじめ皇室のご安泰を祈願し、年三回御所願礼を宮内庁を通じ献上させていただいています。

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第三番札所
護浄院(清荒神)
◎宗派・天台宗◎准胝観音菩薩(観音堂)


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第三番札所
護浄院(清荒神)
◎宗派・天台宗◎准胝観音菩薩(観音堂)


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第二番札所
新京極 誓願寺
◎宗派・浄土宗西山深草派◎十一面観音菩薩(本堂・脇壇)

当寺安置の十一面観音は、弘法大使師の作と伝えられ、かつては新京極中筋町[誠心院の西向かい]にあった長金寺[一言堂]の本尊でした。古来、一言で願いをかなえてくれる[一言観音]として信仰を集めています。しかし、明治初年に廃寺となったため、一言観音は、誓願寺茶所を経て、当寺本堂脇壇にお祀りすることになりました。長金寺の名は、今は御詠歌ににその名残りを留めるのみです。

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第二番札所
新京極 誓願寺
◎宗派・浄土宗西山深草派◎十一面観音菩薩(本堂・脇壇)

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第二番札所
新京極 誓願寺
◎宗派・浄土宗西山深草派◎十一面観音菩薩(本堂・脇壇)

西山深草派と一言観音とのゆかりは深く、法然上人より七代目の門弟、耀空尊證上人は、「春日町一言観音堂」に住した説法者として知られ、『新千載和歌集』に「弥陀たのむ 心のうちに隔てなき 佛はさらに 身をもはなれず」との勅撰歌を詠まれています。

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第二番札所
新京極 誓願寺
◎宗派・浄土宗西山深草派◎十一面観音菩薩(本堂・脇壇)

誓願寺は、西暦六六七年、天智天皇によって奈良の地に開創されました。開山は恵隠僧都、当時は三論宗。その後、平安時代に京都一条小川[現、元誓願寺通付近]に移転、更に天正十九年(一五九一)豊臣秀吉によって寺町三条の地に移されました。浄土宗元祖法然上人説法の霊場とされ、浄土宗西山深草派の総本山です。

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第二番札所
新京極 誓願寺
◎宗派・浄土宗西山深草派◎十一面観音菩薩(本堂・脇壇)

御詠歌:くちずさみ そのなもながき こがねでら ここあんらくの じょうどなるらん

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第一番札所
六角堂 頂法寺
◎宗派・単立◎如意輪観音菩薩(六角堂 本堂)



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第一番札所
六角堂 頂法寺
◎宗派・単立◎如意輪観音菩薩(六角堂 本堂)
本堂北の本坊を池坊と呼び、室町時代以降、多くのいけ花の名手を輩出した、華道発祥の地として有名。現在も華道家元池坊の拠点となっている。

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第一番札所
六角堂 頂法寺 ヘソ石

早くから人々の崇敬を受け、弘仁十三年(八二二)には嵯峨天皇の勅願所となり、また長徳二年(九九六)には花山法皇の御幸があり、西国三十三所観音霊場[現十八番の札所]となったと伝える。建仁元年(一二〇一)、親鸞聖人が当寺に百ヶ日間参籠して、霊告を受け、後に真宗を開宗する根源となった。本堂には、聖徳太子の持仏と伝える本尊如意輪観世音菩薩像、聖徳太子像、毘沙門天立像[重文] などを安置する。他に太子堂、親鸞堂等があり、本堂前の六角形の礎石は古来よりこの場所が京都の中心にあたるとされてきたところから「臍石」と呼び親しまれている。




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第一番札所
六角堂 頂法寺
◎宗派・単立◎如意輪観音菩薩(六角堂 本堂)

寺号を紫雲山頂法寺と号する寺で、本堂が六角宝形造であることから、一般に「六角堂」の名で親しまれている。開基は、聖徳太子で、四天王寺建立の用材を求めて太子がこの地を訪れた時、霊告によってこの地に御堂を建て、守護仏の観音像を安置したのが始まりと伝えられている。


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第一番札所
六角堂 頂法寺
◎宗派・単立◎如意輪観音菩薩(六角堂 本堂)

御詠歌:わがおもふ こころのうちは むつのかど ただまろかれと いのるなりけり


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弁慶石 (武蔵坊弁慶)

源義経に仕えていた弁慶が幼少の頃、三条京極界隈に住んでいた時に愛でていたと伝えられる石です。ビルの1階にある大きな石で少し不自然な感じもしましたが、町名も「弁慶石町」となっていて弁慶にゆかりがあることを知ることができます。

此の弁慶石は「国宝上杉本」にも描かれて居ます。

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弁慶石 (武蔵坊弁慶)

武蔵坊 弁慶は、平安時代末期の僧衆。源義経の郎党。 『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。元は比叡山の僧で武術を好み、五条の大橋で義経と出会って以来、郎党として彼に最後まで仕えたとされる。

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弁慶石 (武蔵坊弁慶)

「義経記」や「弁慶物語」などの軍記に記されたエピソードであり、どこまでが事実でどこまでが伝説なのかわからないところがあります。同時代における最も信ぴょう性の高い歴史書「吾妻鏡」には義経の部下のひとりとして記されているだけであり、「武蔵坊弁慶(弁慶法師)」という人物が実在したことは確かですが、出自はおろか何をした人物なのかも全く記されていません。そのため、各種伝説における「武蔵坊弁慶」が、実在した「武蔵坊弁慶」と同一人物なのかどうかは不明です。

#サント船長の写真 #武蔵坊弁慶
弁慶石 (武蔵坊弁慶)
「上杉本洛中洛外図屏風」
の中に弁慶石が描かれて居ます。
力自慢の町衆が集まり持ち上げる様子が、

#サント船長の写真 #武蔵坊弁慶
弁慶石 (武蔵坊弁慶)

米沢藩上杉家に受け継がれた「京の都」の日
「上杉本洛中洛外図屏風」は、天正2年(1574年)に織田信長から上杉謙信へ贈られたと伝えられ、以後米沢藩上杉家に伝来したという由来を持ちます。平成7年に国宝に指定されました。 筆者は桃山時代を代表する画家・狩野永徳(かのうえいとく)です。京の都を一望し、洛中(市中)と洛外(郊外)の四季と、そこに暮らす人々の生活風俗を描き込んだものです。上杉本と呼ばれるこの上杉家伝来の屏風は、数ある洛中洛外図の中でも初期に属するもので、豪華に、そして細やかに描かれています。

そんな中に弁慶石が描かれて居ます。

#サント船長の写真 #武蔵坊弁慶
平家打倒の橋合戦
宇治川橋
此の橋は宇治川の橋です。
1180年(治承4)5月26日。平家打倒を掲げて挙兵した以仁王・源頼政の一向は、三井寺の勢力を頼むも支援は得られず、やも無く、奈良・興福寺へ向かいます。途中、平等院で休息をして居る間に朝廷が派遣した追討軍に追いつかれ、宇治川を挟んで、戦闘が繰り返し行われた。
特に宇治川橋を挟んでの戦いは激戦でした、
コレが「橋合戦」です、実際の軍勢は頼政側が50騎余り、追討軍は三百騎でしたが、平家物語では、それぞれ一千人余りと二万人騎余りに膨れあがり、戦いも華やかに描かれて居ます。
中でも浄妙房や一来法師の活躍は最たる物でした。

#サント船長の写真 #五条大橋
平家打倒の橋合戦
祇園祭 浄妙山

橋合戦の筒井浄妙と一来法師の活躍の場面が祇園祭の浄妙山に登場して来ます。
筒井浄妙は大活躍をしますが、更に同じ僧兵の一来法師が「悪しう候う浄妙坊」と声をかけ、筒井浄妙の頭に手を着いて飛び越えて活躍をします。その場面が祇園祭に浄妙山です。

ですが❗️コレは昔の話しで、実は牛若丸と弁慶の五条大橋の場面ではないか?
次の投稿で書きます。

#サント船長の写真 #五条大橋 #筒井浄妙 #一来法師 #京都三大祭り
勝竜寺城跡
勝龍寺城は、西国街道や京都に通じる要衝に、防衛拠点として築城された。築城は、応仁、文明の乱が起きた室町時代。平安時代に建てられた勝龍寺の一部がこの地の合戦に登場し、戦国時代になると城下町も発展、信長の家臣、細川藤孝によってより堅固な城へと改修され、京都盆地を主に西側地域を支配の拠点となる。


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勝竜寺城跡
”天下分け目の天王山”で知られる「山崎の戦い」で秀吉軍に敗れた光秀は、勝龍寺城に退却し”最期の夜”を過ごしました。光秀が坂本城を目指して脱出したと伝わる勝龍寺城の北門には、当時の石垣や門の礎石が今も遺ります。

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勝竜寺城跡
勝龍寺城は、明智光秀の娘であり、細川忠興の正室でもあった「細川ガラシャ」のゆかりの城でもあります。
天正6年(1578年)、明智光秀の娘・お玉(後の細川ガラシャ)は、織田信長のすすめにより、16歳で勝龍寺城城主・細川藤孝の嫡男・忠興に嫁ぎました。
その後2年間、勝龍寺城で幸福な新婚時代を過ごしたといわれ、歴史とロマンを秘める城として全国的に知られています。

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月下美人
京都府植物園

月下美人の花には強い香りがあり、花を見なくても、漂い始める香りで咲き始めたことがわかるほど。初夏から秋まで開花を続けますが、連続的に咲くのではなく、2~3回ほどにまとまって開花します。蕾は、大きく育った株の茎葉の各節につきますが、株の栄養状態によっては、しだいに落花してしまうこともあります。
メキシコから中米にかけて分布し、樹木の上に着生して育ちます。近縁種のクジャクサボテンが昼間開花するのに対し、月下美人は夕方から咲き始め、朝にはしぼんでしまいます。なお、姫月下美人(Epiphyllum pumilum)との交配によって‘満月美人’という品種ができています。

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月下美人
京都府植物園


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奇想天外(きそうてんがい)
京都府植物園

キソウテンガイ(奇想天外)  は、アフリカ・ナミブ砂漠の固有種で、 グネツム目ウェルウィッチア科ウェルウィッチア属の裸子植物です。 本主だけで、1科1属1種を成します。 
葉は生涯に2枚しか出さず、一生延び続けます。 雌株と雄株が別株の雌雄異株で、雌花、雄花ともに松笠状の形をしています。 花は葉腋に穂状に付きます、 
主根と、スポンジ状(海綿状)の支根が広範囲に広がり地下水を吸収します。 日中極暑で、極少降水量の砂漠地帯で生き延びるため、葉のクチクラ層が厚く、 葉両面に気孔があり大気中の湿気(霧)を吸収すると共に、根から吸い上げた地下水で 葉を冷やしています。 
寿命が長い植物で2,000年生きるとされます。 

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