吹割の滝
「東洋のナイアガラ」と称される「吹割の滝」。美しい景色の中で、豪快に飛散する荒々しさを肌で感じることのできるとても刺激的な滝です。夏の暑い日に滝からの天然ミストを全身に浴びると、気分爽快。新緑、紅葉と季節によって表情を変える名瀑は人々を魅了します。整備された遊歩道を一周して、利根の自然に触れてください。
 そして滝に感動した後は、老神温泉へ。良質な温泉で心も身体も癒されます。

コレは説明はネツトからですが、
「東洋のナイヤガラ」はチョット言い過ぎですね♪しかし吹割の滝の良さが有ります。
展望台からと橋からと直接滝の近くからと見る場所から良さが判ります。
中尊寺湖

最後の写真の花はなんだ!あれか?
こんなに咲いて居る、


#サント船長の写真
大溝城跡

JR近江高島駅の東南約150mにあります。石垣に囲まれた小高い森が、大溝城の天守跡です。大溝城は新荘城(現新旭町)にいた織田信澄(のぶすみ)が、安土・桃山時代に築城したもので、商家や寺院などを移して城下町を造りました。本丸の南東の乙女ヶ池は琵琶湖の内湖で、古地図によると、大溝城は城堀を内堀とし、乙女ヶ池を外堀とする水城であり、「鴻湖(こうこ)城」とも呼ばれました。江戸時代に分部光信が城主になると、この地を陣屋として12代光謙(みつのり)の明治維新までその支配が続きました。

#サント船長の写真 #石垣巡り
高島市 乙女が池
万葉の時代、「香取の海」と呼ばれた乙女ヶ池一帯は、山の麓まで琵琶湖の入り江になっていました。その後は、大溝城の外掘で、恵美押勝が挙兵に失敗し、高島郡三尾崎で捕らえられ、「勝野の鬼江」で斬罪されたと伝えられる地で、壬申の乱で落城したと伝えられる三尾の城も背後の山中にあったと言われ、幾多の歴史を秘め湖面にロマンをただよわせています。
現在は、面積8.6ha、平均水深1.6mの内湖の池です。
高岡大仏


#サント船長の写真 #日本三大仏像
#日本三大仏 #大仏
加賀観音
此の加賀の観音様は、此のコロナ旋風で見るも無残です、何処の観光地もそうですが、此処は特に、此の大きな観音様を守る職員は一人です。
早くコロナが終息して、観光客が戻って欲しいですね。

#サント船長の写真
日光 華厳の滝

写真7枚目は名物の「すいとん」ですが、
美味しいのですが、昔はもっと、不味かった様な気がします。お袋がメリケン粉で団子にして野菜の中に、味は醤油味です。

#サント船長の写真
日光いろは坂


#サント船長の写真
宇奈月温泉駅(黒部渓谷鉄道)

黒部と宇奈月が合併して急激に良くなった宇奈月ですね、
しかし此処の鉄道は関電の工事様の電車と思いましたが、とんでもないですね、何本も電車が有り、都会の駅ですね。

#サント船長の写真 #宇奈月駅
#日本の駅
会津 サザエ堂

会津若松市の飯盛山にて建立された世界でも珍しい二重螺旋構造、「円通三匝堂」その特異な構造や外観がサザエに似ていることから「会津さざえ堂」とも呼ばれており、市内でも有数の観光スポットとなっています。

このお堂の特徴でもある螺旋構造は、万能人とまで言われた天才、レオナルド・ダ・ヴィンチが設計したともいわれており、それがめぐりめぐって会津若松に伝えられたともいわれています。その真相は定かではありませんが、訪れれば二重螺旋が生み出す“不思議な錯覚”に見舞われまるはずですよ!

#サント船長の写真 #さざえ堂 #飯盛山 #会津
金沢城公園


#サント船長の写真 #金沢城
鳥羽の大石

伏見の鳥羽街道沿い、鴨川の河原に忽然と現れる巨石群。古代文明の遺跡か?はたまた信仰の聖地の御神体か?その謎の答えは、二条城の城郭石材として利用される予定であった、いわゆる「残念石」でした。

鳥羽街道から鳥羽の大石がある河原に降りる場所にある由緒が記されている看板です。河原を公園化する整備事業の際に川底に眠っていたものが数百年の時を経て偶然にも発見されたのこと。
この石材は寛文2年(1662年)に京都を中心に発生した大地震で被害を受けた二条城の石垣の修復のため大阪(大坂)から淀川を船で遡り、当時の京都の水運の玄関口である「鳥羽の港」に陸揚げされ運ばれる予定の石が、何らかの原因で鴨川の川底に沈み現代まで眠っていた説が有力です。

#サント船長の写真 #残念石 #城の石垣
熊野磨崖仏
その昔、鬼が一夜で築いたといわれる急勾配の石段。それを登ると突然左に不動明王、右に大日如来が彫られた巨大石壁が現れる。
まぁ〜幾ら鬼が一夜で造り上げた石の🪨階段ですが、高齢者の事を考えづに造りましたね、歩き難いは、登り難いはしんどいは、大変な石段です😰
大分県豊後高田市田染平野2581

#サント船長の写真 #九州 #磨崖仏
化野念仏寺

化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)は、京都市右京区嵯峨鳥居本化野町にある浄土宗の寺院。山号は華西山。本尊は阿弥陀如来。化野は東山の鳥辺野(とりべの)、洛北の蓮台野と並ぶ平安時代以来の墓地であり、風葬の地として知られる。

#サント船長の写真 #嵯峨野 #石仏 #仏像石像
あぶり餅 一文字屋

京都府京都市北区紫野に鎮座する今宮神社の境内。
神社参拝で参道を行きかう人に、炭火で餅をあぶりながら「おこしやすぅ~」と声を掛けるお店の、一文字屋和輔は一和(いちわ)とも呼ばれ、今宮神社の門前名物となっています。
いかにも風情があり、京都らしさを実感できるお店は、京都を旅行しているという気分を最高に盛り上げてくれます。

#サント船長の写真
芳春院 大徳寺の塔頭

芳春院(ほうしゅんいん)は、京都府京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派の寺院。同派大本山大徳寺の塔頭である。大徳寺の塔頭の中では最も北に位置する。通常は公開されていない。

慶長13年(1608年)に玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)を開祖として加賀百万石の祖・前田利家の夫人・松子(まつ、芳春院)が建立。法号をとって芳春院と名付け、前田家の菩提寺とした。寛政8年(1796年)の火災により創建当時の建物が焼失するが、二年後に前田家十一代の前田治脩によって再興された[1]。明治期には廃仏毀釈の嵐の中で荒廃するが、明治8年(1875年)になってようやく復興される。

#サント船長の写真
弁慶鏡井戸
書写山圓教寺(書写山円教寺、しよしやざん、えんぎょうじ)に有る謎の多い弁慶のまつわる井戸です。

#サント船長の写真 #書写山圓教寺
圓教寺(円教寺、えんぎょうじ)は、兵庫県姫路市書写にある天台宗の別格本山の寺院。
此処は映画の撮影場所でも良く使われる所ですね、中で有名なのはラストサムライですね。

#サント船長の写真 #圓教寺
書寫山圓教寺
西国二十七番札所

圓教寺(円教寺、えんぎょうじ)は、兵庫県姫路市書写にある天台宗の別格本山の寺院。山号は書寫山(書写山)。本尊は如意輪観世音菩薩。西国三十三所第27番札所。宗教法人としての名称は常用漢字体の「円教寺」である。

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鵜川四十八体石仏群

白鬚浜付近で国道161号線を旧西近江路に折れ北進すると、草深い山中の墓地に、花崗岩石で作られた高さ1.6mの阿弥陀如来像群が見られます。この仏像群は、室町時代後期に観音寺城(現安土町)城主の佐々木六角義賢が亡き母の菩提を弔うため、観音寺から見てちょうど対岸にあたる高島市鵜川(うかわ)に建立したものです。東を向いて静かに並んで座っている石仏は、大きさも少しずつ異なり、慈愛に満ちた顔・あどけない顔・ユーモラスな顔など、姿もそれぞれ異なっています。現在、鵜川に33躰、大津市坂本の慈眼堂に13躰が、それぞれ安置されており、残り2躰は行方知れずになっています。


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鵜川四十八体石仏群


 白鬚神社から北へ旧西近江路を約600m進むと、高さ1.6mに及ぶ石仏群が見られます。天文22年(1553年)観音寺城(安土町)城主佐々木六角義賢が亡き母の追善のため、対岸の地(高島市鵜川)に48体の阿弥陀如来座像を建立したものと言われています。様式は室町時代の作風を示す花崗岩質の阿弥陀如来坐像で、一体一体が個性溢れる表情をし、琵琶湖に向かって(観音寺城、安土町の方角)静かに並座しています。48体あった石仏のうち13体が大津市坂本の慈眼堂に移され、2体は行方不明となっており、現在は33体が残っています。

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鵜川四十八体石仏群


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鵜川四十八体石仏群


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鵜川四十八体石仏群


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祇園白川新橋
新橋通り

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祇園白川新橋


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祇園白川新橋


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祇園白川新橋


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祇園白川新橋


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祇園白川新橋


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祇園白川新橋


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愛宕山電鉄後


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愛宕山電鉄跡


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愛宕山電鉄跡


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愛宕山電鉄跡


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愛宕山電鉄跡


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愛宕山電鉄跡


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第五番札所
新長谷寺(真如堂)
◎宗派・天台宗◎十一面観音菩薩(新長谷寺

陽成天皇(八七七~八八四)の御世、越前守藤原高房卿が、西国に赴く途中、一人の漁師が大亀を殺そうとしているところを、助けてやりました。翌朝航海中に、海が荒れ、子供が海に転落しました。救助不能な 荒波の中、昨日の大亀が子供を背中に乗せて救出し無事でした。

時を経て、その子が中納言藤原山蔭卿となり、妻と一子の家庭を築きますが、妻が病死し、後妻を迎えます。後妻は自分の子の出産後、先妻の子が疎ましくなり、太宰府長官赴任の船旅中、その子を海に突き落とします。悲嘆にくれた山蔭卿がその子を探していると、以前自分を助けてくれた大亀が、その子をも救ってくれました。

#サント船長の写真 #洛陽三十三所観音霊場
第五番札所
新長谷寺(真如堂)
◎宗派・天台宗◎十一面観音菩薩(新長谷寺


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第五番札所
新長谷寺(真如堂)
◎宗派・天台宗◎十一面観音菩薩(新長谷寺

御詠歌:いくたびも まいるこころは はせいでら やまもちかいも ふかきたにかわ

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第五番札所
新長谷寺(真如堂)
◎宗派・天台宗◎十一面観音菩薩(新長谷寺


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第五番札所
新長谷寺(真如堂)
◎宗派・天台宗◎十一面観音菩薩(新長谷寺


#サント船長の写真 #洛陽三十三所観音霊場
第四番札所
革堂行願寺


#サント船長の写真 #洛陽三十三所観音霊場
第四番札所
革堂行願寺

創建当時は一条通りにありました。
戦乱や火災でいくたびも焼け、場所を替えつつも、人々の熱烈な信仰によってつねに都の中心部に再建されました。


#サント船長の写真 #西国三十三箇所霊場
第四番札所
革堂行願寺

第18番札所の六角堂と並んで京都の中心部にあるのが第19番札所の革堂。正式には行願寺といい、山門をくぐるとすぐ正面に本堂がある。

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第四番札所
革堂行願寺

此のお寺は京都七福神人の寿老人

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第四番札所
革堂行願寺



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第三番札所
護浄院(清荒神)
◎宗派・天台宗◎准胝観音菩薩(観音堂)


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第三番札所
護浄院(清荒神)
◎宗派・天台宗◎准胝観音菩薩(観音堂)

御詠歌:あらたかや こうじんどうの じゅんていは いのらばりやく さづけたもうぞ


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第三番札所
護浄院(清荒神)
◎宗派・天台宗◎准胝観音菩薩(観音堂)

護浄院は通称清荒神といい、本堂には『清三宝大荒神尊』をお祭りしています。後小松天皇の勅命により摂津国勝尾山から京都の高辻堀川に移され、その後、後陽成天皇が王城(御所)の巽(東南)の方角を守護するため豊臣秀吉に命じて現在の地に移されました。当院は代々勅願寺であり、寺名は東山天皇が御所の浄域を護るようにと『護浄院』と命名されたものです。現在も日々天皇皇后両陛下をはじめ皇室のご安泰を祈願し、年三回御所願礼を宮内庁を通じ献上させていただいています。

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第三番札所
護浄院(清荒神)
◎宗派・天台宗◎准胝観音菩薩(観音堂)


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第三番札所
護浄院(清荒神)
◎宗派・天台宗◎准胝観音菩薩(観音堂)


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第二番札所
新京極 誓願寺
◎宗派・浄土宗西山深草派◎十一面観音菩薩(本堂・脇壇)

当寺安置の十一面観音は、弘法大使師の作と伝えられ、かつては新京極中筋町[誠心院の西向かい]にあった長金寺[一言堂]の本尊でした。古来、一言で願いをかなえてくれる[一言観音]として信仰を集めています。しかし、明治初年に廃寺となったため、一言観音は、誓願寺茶所を経て、当寺本堂脇壇にお祀りすることになりました。長金寺の名は、今は御詠歌ににその名残りを留めるのみです。

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第二番札所
新京極 誓願寺
◎宗派・浄土宗西山深草派◎十一面観音菩薩(本堂・脇壇)

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第二番札所
新京極 誓願寺
◎宗派・浄土宗西山深草派◎十一面観音菩薩(本堂・脇壇)

西山深草派と一言観音とのゆかりは深く、法然上人より七代目の門弟、耀空尊證上人は、「春日町一言観音堂」に住した説法者として知られ、『新千載和歌集』に「弥陀たのむ 心のうちに隔てなき 佛はさらに 身をもはなれず」との勅撰歌を詠まれています。

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第二番札所
新京極 誓願寺
◎宗派・浄土宗西山深草派◎十一面観音菩薩(本堂・脇壇)

誓願寺は、西暦六六七年、天智天皇によって奈良の地に開創されました。開山は恵隠僧都、当時は三論宗。その後、平安時代に京都一条小川[現、元誓願寺通付近]に移転、更に天正十九年(一五九一)豊臣秀吉によって寺町三条の地に移されました。浄土宗元祖法然上人説法の霊場とされ、浄土宗西山深草派の総本山です。

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第二番札所
新京極 誓願寺
◎宗派・浄土宗西山深草派◎十一面観音菩薩(本堂・脇壇)

御詠歌:くちずさみ そのなもながき こがねでら ここあんらくの じょうどなるらん

#サント船長の写真 #洛陽三十三所観音霊 #仏像石像
第一番札所
六角堂 頂法寺
◎宗派・単立◎如意輪観音菩薩(六角堂 本堂)



#サント船長の写真 #洛陽三十三所観音霊場
第一番札所
六角堂 頂法寺
◎宗派・単立◎如意輪観音菩薩(六角堂 本堂)
本堂北の本坊を池坊と呼び、室町時代以降、多くのいけ花の名手を輩出した、華道発祥の地として有名。現在も華道家元池坊の拠点となっている。

#サント船長の写真 #洛陽三十三所観音霊場#西国三十三箇所霊場
第一番札所
六角堂 頂法寺 ヘソ石

早くから人々の崇敬を受け、弘仁十三年(八二二)には嵯峨天皇の勅願所となり、また長徳二年(九九六)には花山法皇の御幸があり、西国三十三所観音霊場[現十八番の札所]となったと伝える。建仁元年(一二〇一)、親鸞聖人が当寺に百ヶ日間参籠して、霊告を受け、後に真宗を開宗する根源となった。本堂には、聖徳太子の持仏と伝える本尊如意輪観世音菩薩像、聖徳太子像、毘沙門天立像[重文] などを安置する。他に太子堂、親鸞堂等があり、本堂前の六角形の礎石は古来よりこの場所が京都の中心にあたるとされてきたところから「臍石」と呼び親しまれている。




#サント船長の写真 #洛陽三十三所観音霊場
第一番札所
六角堂 頂法寺
◎宗派・単立◎如意輪観音菩薩(六角堂 本堂)

寺号を紫雲山頂法寺と号する寺で、本堂が六角宝形造であることから、一般に「六角堂」の名で親しまれている。開基は、聖徳太子で、四天王寺建立の用材を求めて太子がこの地を訪れた時、霊告によってこの地に御堂を建て、守護仏の観音像を安置したのが始まりと伝えられている。


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第一番札所
六角堂 頂法寺
◎宗派・単立◎如意輪観音菩薩(六角堂 本堂)

御詠歌:わがおもふ こころのうちは むつのかど ただまろかれと いのるなりけり


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弁慶石 (武蔵坊弁慶)

源義経に仕えていた弁慶が幼少の頃、三条京極界隈に住んでいた時に愛でていたと伝えられる石です。ビルの1階にある大きな石で少し不自然な感じもしましたが、町名も「弁慶石町」となっていて弁慶にゆかりがあることを知ることができます。

此の弁慶石は「国宝上杉本」にも描かれて居ます。

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弁慶石 (武蔵坊弁慶)

武蔵坊 弁慶は、平安時代末期の僧衆。源義経の郎党。 『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。元は比叡山の僧で武術を好み、五条の大橋で義経と出会って以来、郎党として彼に最後まで仕えたとされる。

#サント船長の写真 #武蔵坊弁慶
弁慶石 (武蔵坊弁慶)

「義経記」や「弁慶物語」などの軍記に記されたエピソードであり、どこまでが事実でどこまでが伝説なのかわからないところがあります。同時代における最も信ぴょう性の高い歴史書「吾妻鏡」には義経の部下のひとりとして記されているだけであり、「武蔵坊弁慶(弁慶法師)」という人物が実在したことは確かですが、出自はおろか何をした人物なのかも全く記されていません。そのため、各種伝説における「武蔵坊弁慶」が、実在した「武蔵坊弁慶」と同一人物なのかどうかは不明です。

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