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80年前の日本が遺るBatio(ベッソ)島とタラワの戦い
タラワ環礁の南西端にBatio(ベッソ)と呼ばれる島があります。
ここは、第二次世界大戦時に大日本帝国軍が占領し要塞化していた島です。
「タラワの戦い」は、第二次世界大戦中の1943年11月に起きた、日本軍とアメリカ海兵隊との76時間におよぶ水陸両用強襲戦です。ベッソ島には、日本軍がおよそ80年前に遺した様々な「物」が今も遺っています。
東端砲台
ニッポン・コーズウェイを渡りベッソ島に入ると、すぐ左側に空き地があります。ここには、大日本帝国軍が配備した高射砲があります。当時の日本軍は、敵襲が南側からくると想定し、これらの武器をベッソ島の東端から西端にかけて配置しました。しかし、アメリカ海兵隊は西岸~北岸(グリーンビーチ~レッドビーチ)から上陸しています。このため東端にあったこれらは攻撃を受けず、当時のそのままに放置されているようです。
軍用機離着陸用の滑走路
日本軍は、軍用機の離着陸のために、ベッソ島中央に滑走路を敷きました。真っすぐに伸びる滑走路は、現在もそのまま一般車道として使用されています。
グリーンビーチ
ベッソ島の最西端にあるGreen Beach(グリーンビーチ)は、「タラワの戦い」の舞台ともなった地です。
ここにもブリキの玩具のような高射砲があります。
こちらは「トーチカ」と呼ばれる武装拠点です。コンクリートで造られた頑丈な防御陣地で、連合国軍の上陸に備えて日本にも沿岸部の各地に作られています。
レッドビーチ
こちらは、島の北東にある日本軍の司令部陣地です。現在は金網が張られ、中へ入ることはできませんが、海側へ向いている、ここと反対の面には、大砲で撃たれた大きな穴があるそうです。
「タラワの戦い」では、76時間におよぶ戦闘の末、大日本帝国軍は壊滅状態となりました。派兵された兵士5千名のほとんどが戦死しています。なぜ、そこまでの惨状になったかというと、日本軍は劣勢の中にいても、最後まで降伏せず抵抗を続けたためとされています。優勢だったアメリカ軍も、その状況を見て日本兵を完全掃討する必要性を感じたといわれています。
一方、米軍の人的被害も甚大で、海からの奇襲攻撃にも関わらず潮の計算違いがあったり、高さのあるサンゴ礁により防御が弱まり砲撃が無力化されるなどで、被害が拡大したそうです。日米両軍の戦没者の血で、グリーンビーチからレッドビーチの海が広い範囲で赤く染まったとか。
双方に多数の損害を出したことで、アメリカでは「恐怖のタラワ」「悲劇のタラワ」と国内に知れ渡り、米軍志願者が大幅に減ったのだそう。
- Batio(ベッソ)島
- キリバス / 島
- 住所:Batio Kiribati地図で見る
現在のキリバスの様子
キリバス共和国の人々は現在、普通に生活をしています。
この島が80年ほど前に日本人によって侵略され、米軍との戦争により焦土化したことは、今では遠い過去のこと。海岸に放置されたこれらの高射砲やトーチカは、キリバス人にとっては単なるオブジェにしか映らないかもしれません。
当時、日本軍はベッソ島を要塞化するにあたり、そこに住んでいたキリバス人たちを全員、別の島に移動させています。このため、タラワの戦いでキリバス人が巻き添えになることはありませんでした。
今は他国となり、ほとんどの日本人が足を踏み入れることのないこの地でも、沖縄戦と同様に失われた日本人の多くの命がありました。国のため、家族のために戦った先人達の犠牲の上に今の私たちの平和な時代があります。今を生きる私たちは、異国の地で散った先人のことを敬い、感謝の気持ちを持って生きたいですね。
キリバスの通貨
キリバスの通貨はオーストラリアドルです。それぞれの島の街中心部には銀行ATMがあり、クレジットカードで通貨を引き落とすことができます。尚、お店でのクレジットカード使用は限られています。
キリバス共和国の行き方
日本からの直行便はないので、フィジーのナディを経由して行きます。