写真:toshelアフリカ大陸の最北西端に位置する西サハラは、多くの国に国家承認されていながら、実質はモロッコ支配下に置かれています。亡命政府はアルジェリアに存在し、現在も独立運動を続けています。西サハラの最大都市にして首都のラーユーンはどんな感じなのか。街の様子をお届けします。
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西サハラ(サハラ・アラブ民主共和国(SADR))とは?
西サハラはアフリカ大陸の北西部に位置し、西は大西洋、北はモロッコ、東と南はモーリタニアと接しています。サハラ砂漠の最西端で降雨はほとんどなく、夏は非常に暑く乾燥しています。
西サハラの人口は約60万人。この地域に住む人々を「サハラウィ(Sahrawi)」と呼ぶことがあります。砂漠の厳しい環境で遊牧生活を営み、独自の文化を発展させてきた歴史を持ちます。
人種は主に、ベルベル人とアラブ人。公用語はアラビア語で、ベルベル語も広く話されています。大西洋沿岸地域は豊富な魚介類が生息しており、漁業が盛んです。また、内陸部ではリン酸塩鉱床が発見され、重要な資源となっています。
西サハラの古代史
先史時代より、サハラ砂漠以南から西サハラにかけては多くの人の住んでいた形跡があります。
- キフィアン文化:紀元前7700年から6200年にかけ、狩猟採集民として生活。
- テネリアン文化:紀元前5200年から2500年にかけ、湿潤な気候条件の中で湖の周辺に居住。
- 古代:西サハラ地域に住んでいた遊牧民ベルベル人が、サハラ砂漠の交易ルートを開発し、塩、金、奴隷を運送。彼らはキャラバンを組み、地中海沿岸に植民都市を築いていたフェニキア人とサハラ以南の地域を結びました。
- 中世:8世紀にイスラム教と共にアラブ人がこの地域に到来し、ベルベル人と共存。サハラ砂漠の厳しい環境に適応し、独自の文化と生活様式を築いてきました。
西サハラが亡命政府となったわけ
タイトルの通り、西サハラは亡命政府です。未承認国とするにはあまりにも多い70か国以上が西サハラ(サハラ・アラブ民主共和国)を国家承認しています。アフリカ大陸では、モロッコを除く全てが西サハラを国家として承認していますが、今現在もモロッコが実効支配しています。
何故このような事態になっているかというと、歴史を紐解くと分かりやすいです。
- 1956年、モロッコがフランスから独立し、スペイン領サハラの領有権を主張。しかし、依然として西サハラ地区はスペイン領のまま。
- 1970年、ラーユーンでスペインに対する反植民地デモが起こる。スペインが弾圧するもこれを契機に反植民地運動が武力闘争に発展。
- 1973年、アルジェリアとリビアの支援のもと、西サハラの独立国家を主張するポリサリオ戦線が結成。
- 1975年、スペインが撤退し、モロッコとモーリタニアが領有権を主張。しかし、ICJは「土地の真正の所有者であるサハラウィ人の明示的な承認を受ける必要がある」とし、両国の主張を認めず。ポリサリオ戦線が独立を目指して武力闘争を開始。
- 1975年後半、モロッコはポリサリオ戦線を攻撃するため西サハラへ軍を送り、西サハラの旧宗主国であるスペインとの二国間協議を要求。資源採掘譲歩の見返りに、「西サハラ地域をモロッコとモーリタニアの間で分割」というマドリード協定によりスペインの支配は終了。この協定で、モロッコが西サハラの北側2/3を併合し、モーリタニアには南側1/3が与えられることとなる。しかし、この協定はサハラウィと協議をしておらず、ポリサリオ戦線はこの条約に反対。
- 1976年、ポリサリオ戦線はサハラ・アラブ民主共和国(SADR)を亡命政府として公表。モーリタニア軍を主な標的とし、首都ヌアクショットを攻撃。数千人のモーリタニアのサハラウィがポリサリオ戦線に寝返り国内が不安定化。
- 1978年、モーリタニア軍はクーデターで政府の統制を握り、無条件で西サハラから撤退を宣言。しかし、モーリタニアの撤退後、モロッコは残りを支配下に置く。
- 1991年、モロッコとポリサリオ戦線は国連が提示した停戦に合意。西サハラの地位はサハラウィによる独立か、モロッコとの統合を決定するかの住民投票とし、国連は停戦と投票を監視するためPKOとMINURSOを派遣。初めは1992年に計画されていたが、有権者数について揉め(ベドウィン多く、どこまでを住民として認めるのか決定できず)、住民投票は頓挫。二度目の国連の試みはポリサリオ戦線には受け入れられたものの、モロッコは国連調停は不要と宣言し、投票を実施するという合意を反故にして今に至ります。
街中には、至る所にモロッコの国旗が掲揚され、いかにも「ここはモロッコです」と言わんばかりの体。
現在のサハラウィの人々はどこに?
サハラウィの人々は、1975年から1991年にかけての西サハラ戦争の影響を受け、多くが難民となりました。現在でも多くのサハラウィ難民がアルジェリアのティンドゥフにある難民キャンプに居住しています。彼らは西サハラの独立を目指し、サハラ・アラブ民主共和国(SADR)を樹立しましたが、モロッコとの対立が続いています。住民は伝統的な遊牧生活を営む人もいれば、都市部で現代的な生活を送る人もいます。
首都ラーユーンのみどころ
ラーユーンは、西サハラの最大都市であり行政の中心地です。街はそれほど見どころはありませんが、アチコチ点在するモロッコ風のミナレットを配したモスクが目につきます。
ラーユーンのモスク
モスクの建設は、モロッコの統治下にあるラーユーンにおいてイスラム教の信仰を深めるために建設されました。モロッコ政府の支援を受けて行われ、地域の発展と安定を目指す取り組みの一環として位置づけられています。モスクの建設により、地域住民の宗教的なニーズが満たされるだけでなく、地域社会の結束も強化されています。
アブドゥル・アジズ・モスク
アブドゥル・アジズ・モスクは、伝統的なイスラム建築の要素を取り入れた美しいデザインが特徴です。モスクの内部には広々とした礼拝堂があり、信者が快適に礼拝できるように設計されています。また、モスクの外観は美しいミナレット(尖塔)や装飾が施されており、地域のランドマークとなっています。
イマーム・マリク・モスク
ミナレットは、礼拝の呼びかけ(アザーン)を行う場所であり、モスクのシンボルとも言えます。モロッコのミナレットはすべて、角塔型のデザインです。
ハッサン・アル・ディルハム・モスク
恐らく、ラーユーンで一番高いミナレットを持つモスクです。
モロッコのモスクはほぼ女性の入館禁止ですので、内部がどうなっているのか伺えませんが、フロアごとに窓を設けているのかと思われます。
ユセフ・ベン・タシフィン・モスク
こちらのモスクでは定期的に礼拝が行われるほか、宗教教育や地域のイベントも開催されています。
ムーレイ・ラシッド・モスク
ムーレイ・ラシッド・モスクはラーユーンにおいて重要な役割を果たしており、地域の歴史と文化に深く根ざしています。
セント・フランシス・オブ・アシジ大聖堂(Cathedral of Saint Francis of Asis)
ラーユーンにはキリスト教徒は極めて少ないですが、立派な教会もあります。セント・フランシス・オブ・アシジ大聖堂は、スペイン植民地時代の1954年にスペイン建築家ディエゴ・メンデスによって設計されたモダニズム建築で、地域のカトリック信者にとって重要な礼拝の場となっています。
アル・マシュール公園
アル・マシュール公園は、広々とした緑地や遊歩道が整備されています。公園内にはベンチやピクニックエリアもあり、家族連れや友人同士でのんびり過ごすのに最適です。
公園では、ジョギングやウォーキングを楽しむ人々が多く見られます。また、地域のイベントやフェスティバルなども開催され多くの人々が参加します。
街中の様子(治安)
ラーユーンの街中は、歩いている人も少なく至って静かです。政府系の建物の前にはモロッコ警察が警備していますが、それ以外では見当たらず、市民は秩序だって生活しているように見えます。
紛争地ではありますが、どちらかというと人々は大人しく冷静で、治安も非常に良いです。
独立運動が収束していないと言っても、既にこの状態が40年も継続しています。背後には仏や米国も着いており、モロッコの強気姿勢に今後も変化はないでしょう。
ラーユーンの行き方
西サハラのラーユーンへは日本から直行便がありません。一番早い行き方は、EUや中東を経由しモロッコのカサブランカへ行き、カサブランカからラーユーンへ一日1~2本のフライトがあります。モロッコの首都ラバトの空港からも数日に一本往復しています。
尚、アフリカ各国は西サハラを独立国と承認しておりますが、上述のとおりモロッコは自国領との認識ですので、フライトは国内線です。
使用通貨はモロッコ・ディルハムです。主要な店ではほぼクレジットカードが使えます。















































