源光庵の悟りの窓迷いの窓
右手の窓が
「迷いの窓」は四角い窓に「人間の生涯」を象徴し、生老病死(しょうろうびょうし)、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)の四苦八苦を顕わしているといわれています。
左手の窓が
「悟りの窓」は円い窓に「禅と円通」の心を表し、ありのままの自然な姿、清らかで偏見のない姿、悟りの境地を教える窓といわれています。

#サント船長の写真#源光庵#悟りの窓迷いの窓#血天井
源光庵の血天井
本堂の⾎天井は、伏⾒桃⼭城の遺構です。
慶⻑5年7⽉(1600年)徳川家康の忠⾂・⿃ 居彦右衛⾨元忠⼀党1800⼈が⽯⽥三成の軍 勢と交戦し討死、残る380余⼈が⾃刃して相 果てたときの恨跡です。

京都市内に6ヶ所八幡市に宇治市にあります。
今回は京都市の鷹峯の源光庵です。此の源光庵は悟りの窓迷いの窓が有名です。

#サント船長の写真#源光庵#養源寺#正伝寺#天球院#宝泉寺#栄春寺#興聖寺#神應#悟りの窓迷いの窓 #伏見城の遺構
青蓮院門跡
粟田御所とも呼ばれる天台宗の三門跡のひとつ。比叡山上にあった僧侶の住坊が起源で、当時は最澄や円仁をはじめとした高僧の住居であったという。
また老木の楠木が5本有ります。

#サント船長の写真
阿弥陀ヶ峰の豊臣秀吉の墓
頂上までは、約500段の石段を登る事になります。
中間地点よりも先に進むと階段も急勾配になります。

徳川家康は豊臣政権が崩壊してからはこの秀吉の墓所は入山禁止にしてます、解放されたのは明治からです。
山頂からは清水寺が一望出来ますよ。

#サント船長の写真
祇園閣 (大雲院)
東山にある円山公園の南に位置し、織田信長と息子信忠の菩提を弔うために建立された寺院。ひときわ高い「祇園閣」は祇園祭の鉾を摸した外観になっている。3階建ての閣上からは東山から京都が一望できる。また、石川五右衛門の墓もある。※通常非公開

#サント船長の写真
統国寺のベルリンの壁

統国寺は大阪天王寺区に有ります。
1998年9月、統国寺の一般の方からのご寄進されました。
このベルリンの壁は崩壊前の大きさそのままの実物です。
写真の正面が西独側です。
これと同じものが逆Lのかたちで東独側に建っていたそうです。

#サント船長の写真
城南宮

御所の裏鬼門の守護と国の安泰を願って、平安遷都の際に京都の南に創建されてから1200年。城南宮は、引越・工事・家相の心配を除く「方除(ほうよけ)の大社」と仰がれています。家庭円満や厄除や安全祈願、また車のお祓いに全国からお見えです。また古くより、住まいを清める御砂や方角の災いを除く方除御札を城南宮で授かる習慣があります。そして曲水の宴が行われる神苑は、しだれ梅、椿、桜、藤、躑躅、青もみじ、秋の七草や紅葉に彩られ安らぎの庭になっています。

#サント船長の写真 #城南宮 #戊辰戦争
京都城南宮の梅林 
此処の庭園の梅は一言、天国の花園がこんな感じかなぁ(汗)

#サント船長の写真#城南宮#梅林
豊国神社の唐門

京都府京都市東山区にある豊臣秀吉を祭神とする神社が豊国神社。入母屋造、檜皮葺きの唐門は、もともとは伏見城にあったものを廃城の際、二条城に、さらに以心崇伝が寛永4年(1627年)、二条城の唐門を譲り受けて金地院に。明治維新後の再建の際に金地院から移築されたもので、国宝。
鶴の彫り物は左甚五郎の作

#サント船長の写真 #京都三大唐門 
#伏見城の遺構
国家安康君臣豊楽の鐘
方広寺の鐘銘の事件

1614年(慶長19)再建された京都方広寺大仏殿の釣鐘の銘に徳川家康が難くせをつけ,豊臣秀頼を開戦に追いこんだといわれる事件。秀吉が創建し,1596年の大地震で崩壊した方広寺の再建は徳川・豊臣両氏の共同事業であったが,鐘銘に〈国家安康〉の文字があったのを〈家康〉を胴切りにするものと難くせをつけた家康は,これを機会に秀頼の徳川氏への臣従化を迫った。秀頼はこれを拒否し,大坂の陣が起き,豊臣氏は滅んだ。

#サント船長の写真 #方広寺 #日本三大梵鐘
青蓮院の楠木
門跡寺院の青蓮院(しょうれんいん)にある五本の楠の巨樹です。いずれも京都市の天然記念物に指定されています。長屋門の白壁・板塀と楠の緑が美しい京の風景を作ります。

#サント船長の写真 #青蓮院
平安神宮 応天門
「弘法も筆の誤ち」
弘法大師は応天門の「応」の字を間違ったようです。
今昔物語集 (巻十一の九話)に、勅命によって諸門の額を書くことになった弘法大師が、額を応天門に打ち付けてから見たところ、初めの字「応」の心の点が無く、筆を投げて点を打ったという逸話があり、この話からことわざが生まれたようです。

#サント船長の写真 #平安神宮
城南宮 梅が枝 (京都)
⛩️城南宮のしだれ梅と椿・梅が枝神楽 

#サント船長
ならの小川 (上賀茂神社)

みたらしがわ)と御物忌川(おものいがわ)が流れ込みますが、楠橋(くすのきばし)と禰宜橋(ねぎばし)の間で合流をして改めて御手洗川と呼ばれます。そして庁屋(ちょうのや)へと通じる神事橋(じんじばし)から下流では「ならの小川」と呼び名が変わり、さらに境内を出てからは明神川と名前を変えて社家町を流れていきます。わずかの距離の間でこれほど呼び名が変わる川も珍しいでしょう。

また此の川で時代劇の撮影場所て、有名な切られ役の福本清三さんは此の川に何度叩き込まれたか(汗)

#サント船長の写真 #上賀茂神社
河合神社- 下鴨神社

河合神社は下鴨神社の摂社として古くより祀られ、女性守護としての信仰を集めるお社である。ご祭神には神武天皇の母、玉依姫命をお祀りし、玉依姫命は玉の様に美しい事から美麗の神としての信仰も深い。河合神社ではこの美麗の祈願絵馬として鏡絵馬の授与を行っている。

#サント船長の写真 #下鴨神社
糺の森(ただすのもり)
下鴨神社に有る原始林

賀茂川と高野川の合流地点に発達した原生林で、およそ12万4千平方メートル(東京ドームの約3倍)の面積がある。森林の全域が1983年(昭和58年)に国の史跡[注釈 として指定を受け、保存されている。また、1994年(平成6年)には下鴨神社全域が世界遺産に登録されている。

#サント船長の写真 #下鴨神社
インクライン(傾斜鉄道)
京都蹴上に有る明治に造られた遺産ですね。
琵琶湖疏水です。

《斜面・勾配 (こうばい) の意》傾斜面にレールを敷き、動力で台車を動かして船・貨物を運ぶ装置。京都市東山区蹴上 (けあげ) にあったものが有名。

#サント船長の写真 #琵琶湖疏水
深草少将百夜通い(随心院)

山科小野の随心院には、深草少将百代通いの証拠あるの品が残って居ます。
それは榧の木です♪深草少将は小町から「私が好きなら100日間通ってください」とふざけた事抜かされ、優しい深草少将は来た証に榧の実を小町の屋敷に置いて行きました。その実がコレです、小町は実の頭に穴を空けて糸をと通しました。しかし榧の実は99個でした。つまり99日目には深草少将は力尽き寒い雪の中で亡くなりました。コレが深草少将百夜通いです。

#サント船長の写真 #小野小町 #随心院
南禅寺の三門
石川五右衛門の隠れ家

伝説ですが、此処南禅寺の三門の屋根裏は五右衛門の隠れ家では?
実は今から約66年前地元新聞が、南禅寺の三門の屋根裏を掃除して居たら、小判が三枚出て来たと、今は亡き俺等の父親が夕食時に語って居ました、その時の事は今も鮮明に覚えています。
実は南禅寺の三門の大屋根の下に、窓が有り、そこから縄が下がって居ました。
今はもう縄がは有りませんが、縄を括って居た金具は今も残って居ます。
当時俺等は石川五右衛門の隠れ家と信じて居ました。

皆さん是非石川五右衛門の出入り窓を見て下さい♪


#サント船長の写真 #石川五右衛門 #南禅寺
熊谷直実の鎧掛けの松 金戒光明寺

熊谷直実が、法然上人を
尋ね、方丈裏の池で鎧を洗い、此の松に掛け、その後熊谷直実は出家をしました。

平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。武蔵国熊谷郷。熊谷直貞の次男。鎌倉幕府御家人。

#サント船長の写真#金戒光明寺 #平敦盛 #京都が熱い
北野天満宮の大黒天
此処京都北野天満宮には、大黒組の灯篭に
鼻の穴が大きく開けられた大黒天さんが居られます、その鼻の穴に小さな石🕳を入れ、その石が落ちなけれは願いが叶うとか、遣り方、小さな小石を探し、大黒天の鼻に入れる、これだけですね♪ただしチャンスは一回切りです、小石を置いたら指をはなす、小石が鼻に留まれば、成功です😄落ちたら終わりです。
成功の秘訣は、小石を置くのでは無く鼻の穴に差し込むですね、置く事は物理的に無理ですね。
証拠写真を最後に掲載して居ます♪

#サント船長の写真 #北野天満宮 #京都
猿が辻 京都御所

北東(丑寅うしとら)は鬼門の方位であり、十二支においてはその反対が未申(ひつじさる)であることから、猿の木像を鬼門除けとして築地塀(つじべい)の軒下に安置して祀ったのが通称の由来であるという説のほか、御所を守護する日吉神社の神使が猿だったことから「猿ヶ辻」と呼ばれるようになったとする記述もある。角欠けとも呼ばれる。

「猿ヶ辻」の部分の塀は、敷地内へへこんだ形に造られていることから、「御所が鬼門を避けている」「除けている」と考えられ、それが後世まで鬼門を除ける手法とされてきた。

#サント船長の写真 #京都御所
強襲揚陸艦アメリカ  大阪港
訓練の途中に大阪港に立ち寄ったとか。
勿論強襲揚陸艦を見たのも始めてでしたF-35Bも初めてだ。

#サント船長の写真 #強襲揚陸艦アメリカ #F-35B
京都聖母女学院

聖母女学院本館は、京都でも屈指の歴史ある建造物です。外観は古典様式の意匠でまとめられており、室内の装飾は簡素ながらも、天井の真飾りや各部屋で異なる暖炉の装飾、階段の意匠など、随所にさまざまな趣向が凝らされています。
1908(明治41)年8月に、陸軍第16師団司令部の庁舎として建てられたこの建物は、戦後、平和を心から愛する当学院の創立者メール・マリー・クロチルド・リュチニエのもとに払い下げられ、正門前のマリア像と共に、当校で愛されています。
2013年1月31日には、京都の財産として残したい建物や庭園として京都市民から推薦があり、「京都を彩る建物や庭園」に認定され、2016年2月25日には、国登録文化財(有形文化財建造物)にも指定されています。

#サント船長の写真
伏見稲荷大社(根あがりの松)

奥の院から右手の鳥居へ

#サント船長の写真 #伏見稲荷神社
伏見稲荷神社の千本鳥居


#サント船長の写真 #伏見稲荷神社
伏見稲荷の狐(伏見稲荷大社)
玉屋・鍵屋
たまや〜かぎや〜 と言えば、花火屋の屋号ですね♪
何故?鍵屋・玉屋なのかなぁ、実は花火職人の方が稲荷神社に信仰されて居て、そのキツネの咥えた物が鍵です。また鍵屋から暖簾分けされた方を玉屋と屋号を付けました。
その証拠の狐が伏見稲荷神社の楼門前の狐が咥えて居ます。

#サント船長の写真 #伏見稲荷神社 #鳥居
フィリピン航空博物館
マニラはニノイ・アキノ国際空港から徒歩で行ける範囲内にフィリピン航空博物館が有ります、此処に小野田寛郎さんが終戦になったのも知らず、戦って居た当時のモノが展示されて居ます。

コレの動画はTik Tokのサント船長で検索してね頭は#を付けてね。

小野田 寛郎は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は予備陸軍少尉。旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。

#サント船長の写真 #フィリピン
臼井の石仏

1952年(昭和27年)に国の特別史跡に指定され、1995年(平成7年)には、磨崖仏として日本初、彫刻として九州初の国宝に指定された。臼杵磨崖仏は全4群61躯で構成され、そのうち59躯が国宝に指定されている。

#サント船長の写真 #九州 #石仏
長崎 出島

寛永13年(1636)に築造された出島は、安政6年(1859)、オランダ商館が閉鎖される218年間に渡り、わが国で唯一西欧に開かれた窓として日本の近代化に大きな役割を果たしてきました。


#サント船長の写真 #九州
長崎 大浦天主堂

大浦天主堂(おおうら てんしゅどう)は、長崎県長崎市にあるカトリックの教会堂である[注釈 1]。江戸時代幕末の開国後、1864年(元治元年)に竣工した。日本に現存するキリスト教建築物としては最古である。正式名は日本二十六聖殉教者聖堂。その名のとおり日本二十六聖人に捧げられた教会堂で、殉教地である長崎市西坂に向けて建てられている。

#サント船長の写真 #九州 #二十六聖人
#日本の世界遺産
長崎 一本足鳥居


#サント船長の写真 #九州
長崎 思案橋


#サント船長の写真 #九州
長崎 メガネ橋


#サント船長の写真 #九州
大徳寺 金毛閣
大徳寺の山門は応仁の乱後、1529年(享禄2年)に柴軒屋宗長の寄与により再建されました。織田信長の大葬儀が大徳寺で行われてから7年後の1589年(天正17年)、千利休は三門を造替する。
「草履を履いた利休の木像」
このため門を通る者は利休の足下をくぐることになり、これが当時の天下人豊臣秀吉の怒りを買って利休切腹の一因となったと云われ、利休は1591年(天正19年)に切腹の命を受け70歳の生涯を閉じる。
死後、利休の首は一条戻橋で、自身の木像に踏ませる形で梟首されたと伝えられている・・

#サント船長の写真 #三門
#金毛閣
明治天皇が産まれた所

嘉永五年(一八五二)九月二十二日、孝明天皇の第二皇子として京都石薬師門内の権大納言中山忠能の邸に生まれる。

京都御所の中山邸です、今もその地は有り井戸も有ります。

一枚目の写真は明治天皇が産まれた産屋

#サント船長の写真
長崎二十六聖人

日本二十六聖人は、1597年2月5日豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された26人のカトリック信者。日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであった。

この二十六人は京都・大阪での信者ですが、時の奉行石田三成はキリスタンを捨てるなら解放すると、言いますが、コレを拒み処刑を望み京都・大阪・堺で引き回し長崎で処刑されす。
此の最初の地が京都の四条堀川の妙満寺です。
二十六聖人の記念碑の裏には「きようと」記されて居ます。

#サント船長の写真 #二十六聖人
大江山の鬼伝説
源頼光の四天王と言われた渡辺源吾綱と坂田金時、碓井貞光、卜部季武、を倒しに行く面々ですね。討ち取られた酒呑童子は都に運ばれますが、途中で埋められます。

#サント船長の写真 #首塚大明神 #歴史的伝説の墓
石川五右衛門の墓

大雲院にある石川五右衛門の墓
京都市東山区の大雲院の墓地にある石川五右衛門のお墓も、彼が実在したことを示す証拠と言えますね。

#サント船長の写真 #歴史的人物の墓
大江山の鬼
京都エリアの福知山市、舞鶴市、宮津市、与謝野町に跨がるエリア内最大の山域である大江山には三つの鬼伝説があります。鬼と聞くとまず妖怪や魔物の類いがまっさきに思い浮かぶ方は少なくないと思います。しかし大江山の鬼伝説

此処には鬼の足跡(写真)



#サント船長の写真
橘寺
橘寺は、いわゆる俗称であって正式には昆陽山地蔵院という。現在は西大路通一条の交差点の南東角(山門は交差点を東に入ってすぐのところ)にあるのだが、創建時は摂津国昆陽池のほとりにあり、平安時代には京都へ移って衣笠山の麓に堂を構えていたという。その後、一時は廃絶していたが足利義満によって復興され、秀吉の時代に紙屋川畔の現在地に移されたとのこと。この地蔵院を「椿寺」と呼ぶのは、加藤清正が文禄・慶長の役の折に朝鮮から持ち帰って秀吉に献じたとされる五色八重散椿が、秀吉から地蔵院へ贈られたからとされている。現在、本堂に前にあるのは二代目で、清正・秀吉が愛でたとされる散椿は、伝承の中に残されるのみとなっている。
此の橘寺は小さなお寺ですが、見所は満載です。

① 五劫思惟の阿弥陀仏
② 義商天野屋利兵衛之墓
③豊公愛樹五色八重散椿
④鍬形地蔵
⑤キリスタンの墓
⑥火天閻魔天図

#サント船長の写真 #五劫思惟の阿弥陀仏
石川五右衛門の手形

後鳥羽上皇ゆかりの水無瀬神宮(みなせじんぐう)の入口、神門(薬医門)の右柱にあります。安土桃山時代の大盗賊・石川五右衛門が、神宝の太刀を盗もうとして数日竹やぶの中に潜み、忍び入ろうとしたが、足がすくんで門内に入れず、門柱に自分の手形を押して立ち去ったと伝わります。

#サント船長の写真 #水無瀬神宮
化粧水
小町ゆかりの名水
小野小町ゆかりの名水の歴史を伝える「化粧水」の碑 京都市下京区・四条通西洞院南東角
 建物の壁に寄り添うように「化粧水」と刻まれた石碑が建つ。
余所見をして居たら通り過ぎます、
増して植え込みが伸びると小さな石碑は隠れてしまいます😅
 平安時代の歌人で、絶世の美女といわれた小野小町ゆかりの名水の歴史を伝える。江戸時代の「都名所図会」には「化粧水は西洞院四条の南にあり。いにしえこの所に小野小町の別荘ありしなり」と記され、邸内にあった井戸水を小町が使ったことにちなみ化粧水と名付けられたという。
 石碑は高さ六十二センチ、幅二十三センチ、奥行き十九センチ。駒札によると、妙傳寺町内会が、地域の歴史を語り継ごうと、一九八六(昭和六十一)年に建立した。
小町と美の関係は切っても切れず、京都ではほかにも、美人になるという小町ゆかりの水の伝承や遺構は多い。

#サント船長の写真 #小野小町 #小野小町の石碑
八坂神社
此の神社の本殿は国宝で7月1日からの祇園祭り、更に12月31日の「をけら参り」新年の初詣では超有名ですが。
八坂神社は元々八坂と言う名前では有りませんでした、八坂神社のお祭りは祇園祭りと言い、元の名は祇園社と言います、祇園と言う言葉は仏教用語なんですね、神仏分離令で祇園社を八坂神社に改めました。
その祇園社の名が今も残って居ます。それが灯篭です♪
八坂神社へお参りの時、此の灯篭を探してみては?
私も探し灯篭は三基見つけましたが、他にも有るかも?

#サント船長の写真 #八坂神社 #祇園祭り
京都 東寺の終い弘法 
1ヶ月一度の縁日で12月21日は終い弘法さんです。
この日はお正月の植木とかお正月の食品などを買いに来ます♪

#サント船長の写真 #東寺 #世界遺産
酬恩庵(しゅうおんあん)一休寺

一休さんは
室町時代を生きた臨済宗大徳寺派の禅僧。京都生まれで幼名は千菊丸。後小松天皇あるいは足利義満の血を引くともいわれています。6歳で京都の安国寺に入門し、周建の名前を授かりました。幼い頃より漢詩の才能を開花させ、『長門春草』を13歳のときに、15歳では『春衣宿花』を著しています。一休の名付け親は大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)。一休の「「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」の言葉から、華叟が道号として授けました。その後、さまざまな人生の紆余曲折を経て、1481年、88歳で病没。一休寺で静かに眠っています。
錦天満宮の鳥居
京都市中京区寺町錦
此の鳥居は錦通りに有りますが、両側の建物に食い込んで居ます。
本来なら此の道は錦天満宮の道なんでしようね、両側の家の人が境界を越えて建物を建てたのでしょうね、
此の鳥居は昭和10年8月に建てられて居ますね、
しかし争にならなかったのかな〜?
年号が見える方向は錦市場です。
その反対側は錦天満宮です。

#サント船長の写真 #鳥居
八坂神社 (京都祇園)
八坂神社の本当の名前は?
祇園さんとか八坂さんと言われる、八坂神社の本当の名前は?
祇園祭りとか12月31日の「をけら参り」で、有名な八坂神社ですが、何故?名前が変わったの?実は「祇園社」が本当の名前でした。
明治の悪法で神仏分離令で名が変わりました。
その名前が今も残って居ます。
皆様八坂神社へご参拝の時此の灯篭を探してみては?

#サント船長の写真
鬼無里街道
長野県

鬼無里街道は、長野市中心部から西へ、鬼女伝説の残る里を通って北アルプス山麓の白馬村(はくばむら)を結ぶ山間(やまあい)の道。かつては急流を見下ろす断崖絶壁をたどる悪路でしたが、近年の改修により自然が身近に迫る快適なドライブコースとなり、フィナーレでは白馬三山(しろうまさんざん)を真正面に大パノラマが展開します。

#サント船長の写真
浄瑠璃寺
京都府木津川市

#サント船長の写真
勧修寺の水戸光圀の灯籠
水戸光圀さんは余程財力が有ったのでしょうね、東寺の五重塔を始め京都のお寺を建てたり再建をされて居ますね。

一度光圀さんの関係するお寺を見聞したいですね♪

「京都に来たら灯籠を見てとうろう」は多分、此処の住職の遊び心でしようね😅

#サント船長の写真
醍醐寺 五重の塔 (その21)
国宝にも指定されている醍醐寺の五重塔は、天暦5年(951年)に完成。現存する京都府の五重塔では最古のものとされている。高さは約38m。建物だけでなく、初層内部の壁画も独立して国宝に指定されているが、内部に入っての拝観はできない。醍醐寺と言えば桜だが、紅葉の時期もとてもきれい。市内の建造物は、応仁の乱はじめ多くの戦乱で焼失したが、醍醐寺も多くのお堂が焼失した。ただ、この五重塔は驚くことに千年を超える時を立ち続けている。上層にいくほど屋根の幅が小さくなる初期のころの建築様式を見ることができる。

#サント船長の写真 #五重塔
#五重塔22 #京都の五重塔
鞍馬寺 参道の店 
叡電鞍馬寺駅から僅かの店の前を通り鞍馬寺へ
此処の店で食事をしましたが、此処のご飯🍚の美味い事、何か別のお米と思いました。それは、昔福島県は会津若松で食べたおにぎりを凌ぐ美味さでした。
其処のお店の名は「多聞堂さん」店は饅頭屋らしいが、兎に角ご飯は天下一品です♪
(注)
多聞堂さん関係の写真はありません。

#サント船長の写真
海住山寺の五重塔(その18)
海住山寺(かいじゅうせんじ)は、京都府木津川市加茂町例幣海住山にある真言宗智山派の寺院。山号は補陀洛山(ふだらくさん)。本尊は十一面観音。かつて恭仁京があった瓶原(みかのはら)を見下ろす三上山(海住山)中腹に位置する。奈良時代の創建を伝え、鎌倉時代に貞慶によって中興された。国宝の五重塔で知られる。仏塔古寺十八尊第3番札所。
京都には五基の五重塔がありますが、此の塔が一番低くて17.7mですが国宝です。因みに東寺は54.8m・八坂は46m・醍醐寺は38m・仁和寺32.7mです。東寺は日本で一番高く世界遺産、醍醐寺と仁和寺も世界遺産ですね。

#サント船長の写真 #五重塔
#五重塔22 #京都の五重塔
二見ヶ浦 夫婦岩
大岩(男岩)は高さ9m、小岩(女岩)は高さ4m、大注連縄35m。
夫婦岩の中央から差し昇る朝日は夏至を中心に5・6・7月が最も美しく拝されます。
日の大神と猿田彦大神縁の興玉神石を遥拝する鳥居の役目をしております。

「思い出」
俺等は、昭和21年生まれで小学生の修学旅行が此処でした。乗り物は、蒸気機関車で、旅館は二見旅館ですが、夜の食事のご飯のお米を持参でした。アレから日本は、あっと言うまに経済大国の先進国です。
そうですね約60年前の記憶です♪

#サント船長の写真 #夫婦岩
仁和寺の金堂
此処の屋根瓦に乗っている瓦、
どの様な仙人かな?

#サント船長の写真
五智山蓮華寺

五智山 蓮華寺は京都市右京区御室にあり、真言宗御室派の別格本山として、その長い法灯を守り伝えてきました。 本堂にはご本尊の阿弥陀如来様が祀られています。不動堂には五智不動明王様が祀られ、毎月28日には護摩供養、夏には宗祖・弘法大師ゆかりの秘法「きゅうり封じ」が行われます。門をくぐり、中に入ると大きな石仏、薬師如来、宝生如来、大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来の五体の五智如来座像が、私たちを優しく迎えてくれます。
別格本山五智山 蓮華寺は近畿三十六不動尊霊場の十五番目に位置しています。近畿三十六不動尊霊場とは近畿地方の大阪府、京都府、兵庫県、滋賀県、奈良県、和歌山県にある不動尊(不動明王)を祀る三十六ヶ所の霊場です。

#サント船長の写真
御室仁和寺 五重の塔(その18)

日本に現存する主要な五重塔は55基に上るが、その中でも22塔を紹介して行きます。その中でも、もっとも多くの人の目に触れているのは、仁和寺の五重塔だろう。京都市右京区御室(おむろ)にある仁和寺に直接足を運ばなくても、映画やテレビなどの時代劇に、仁和寺の五重塔が頻繁に登場するからである。「時代劇に出てくる五重塔の大半は、仁和寺の五重塔」といっても、過言ではないぐらいだ。
これほど多く映像で扱われているのは、仁和寺の五重塔が、「下層から上層に至る各層の屋根の大きさがほぼ同一」であるなど、江戸期の五重塔の様式特徴を、わかりやすい形で備えているからだ。江戸期の時代感を演出する上で、恰好(かっこう)の素材なのである。

法隆寺の五重塔に代表されるように、古い時代の五重塔は、上層になるほど屋根のサイズが小さくなる。そうした五重塔では時代感の違いが見えてしまい、泰平下で町人文化が花開いた江戸時代の雰囲気が出ないのだ。
加えて、仁和寺では広大な境内に様々な伽藍(がらん)や建物が配置され、景観変化も多様なので、ロケ・スポットが数多く存在する。

#サント船長の写真 #仁和寺 #五重塔 #五重塔22 #京都の五重塔 
#日本の世界遺産 #時代劇の聖地
御室仁和寺 金堂
 仁和寺の金堂は、寛永年間(1624年-1644年)に御所内裏の正殿「紫宸殿」(ししんでん)が移築された建物(国宝)。
 移築された紫宸殿は、1613年(慶長18年)の建立。
 仁和寺金堂が現存する最古の紫宸殿となり、宮殿建築を伝える重要な遺構となっている。
 本尊は阿弥陀三尊で、金堂移築時に造立されたもの。
 もと金堂に安置されていたといわれ、現在は霊宝館に安置されている木造阿弥陀三尊像は、888年(仁和4年)に仁和寺が創建されたときの本尊と考えられている(国宝)。

#サント船長の写真 #仁和寺 #日本の世界遺産
仁和寺 中門

仁和寺の中門は、1641年(寛永18年)~1645年(正保2年)頃の建立(国重文)。

 切妻造・本瓦葺・柱間三間の八脚門。
 側面の妻部には二重虹梁蟇股が飾られている。
 向かって左側に西方天、右側に東方天を安置している。

#サント船長の写真 #仁和寺 #時代劇の聖地 #日本の世界遺産
御室仁和寺の二王門

 京都の三大門の一つで、国の重要文化財に指定されている仁和寺の二王門は桁行(幅)が18.7メートル、高さが20.5メートルもあるそうです。この二王門は南大門とも呼ばれています。
 京都三大門とは知恩院三門と南禅寺三門、それにこの仁和寺の二王門です。

俺等は東福寺の三門と思って居ましたが、違うのですね😅

#サント船長の写真 #仁和寺 #日本の世界遺産
八坂の塔 法観寺(その19)

法観寺 (八坂の塔)
東寺の五重の塔の内部は正月の三日間だけですが、八坂の塔は塔内に入れます。

正式名は法観寺(ほうかんじ)京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。清水寺の近隣に位置する。街中にそびえ立つ五重塔は通称「八坂の塔」と呼ばれ、周辺のランドマークとなっている。境内は狭く、塔以外に目だった建築物がないことから、「八坂の塔」は寺自体を指す通称ともなっている。

#サント船長の写真 #東寺 #八坂の塔 #五重塔 #五重塔22 #京都の五重塔
東寺 東大門


#サント船長の写真 #東寺
京都 東寺五重の塔(その20)

新幹線の南窓から見えるのが、東寺の五重塔。
仏の都、京都のランドマークタワーです。
その高さは約55メートル、
木造の建造物としては日本一の高さを誇ります。
五重塔は、仏陀の遺骨を安置するストゥーパが起源とされ、
東寺の五重塔には、弘法大師空海が唐より持ち帰った仏舎利を納めています。

⭐︎鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい、慶応4年1月3日〈1868年1月27日〉- 1月6日〈1月30日〉)は、戊辰戦争の初戦の時、指揮官の西郷隆盛は此の東寺の五重の塔の上から指令を出して居ました。

#サント船長の写真 #東寺 #五重塔 #五重塔22  #日本の世界遺産 #京都の五重塔
子安観音

大昔の武将・豊臣秀吉の妻、「ねね」の菩提寺(お墓があるお寺)が、高台寺です。近くに住居を構えていたねねは、無事に元気な子どもが生まれることを願って一念坂・二年坂・産寧坂から清水寺の山門下の子安観音にお参りをしました。
その子安観音が有った所が清水寺の山門下、今の警備員の事務所が有る所です、今は石碑が一本有るだけで、知る人だけが知る所です😓
現在の子安観音は明治時代に移されました。
場所は清水寺の舞台から正面に見えます。
#サント船長の写真 #一念坂二年坂産寧坂
  15 6 7 8 931  

全1961枚のうち( 391 - 455 枚目)を表示