ハンガリーの首都ブダぺストの中央部に位置するゲッレールトの丘。ここはブダペストの街を一望できる名スポットです。山など視界を遮るものがないので、昼間は地平線までくっきり望むことができます。打って変わって日没が近づくと、青空と夕焼けの色彩が街の姿をより妖艶に映し出します。夜は、街の姿を隠す反面、暖かい光の礫が眼前を埋めつくすほどに現れ、まさに生きているかのようにそれらの動きを一瞬たりとも見逃せません。
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ドナウ川とブダペストの中心街を一望できるロケーション
ハンガリーの首都ブダペストという呼称は、ドナウ川を境にして西側(山側)のブダ地区、東側(町側)のペスト地区という二分されていた街を合併した由来に基づきます。ゲッレールトの丘からは、現代の繁栄した街並みが広がる居住区ペストと、漁夫の砦やブダ城など歴史的建造物が存在するブダを俯瞰して望むことができます。
その間を縫うように流れる全長2,860kmのドナウ川が、まるで空まで続いているかのように美しい曲線を描き、街の脈動を感じさせます。
街の平和を見守る自由の像
自由の像の起源
標高235mのゲッレールト山の山頂には、高さ14mの自由の像が佇んでいます。この自由の像は、名前の通りブダペストが解放された証として今なお残っています。第二次世界大戦当時、ハンガリーは旧王国領の回復を目指し、ナチス・ドイツと軍事同盟を結びました。しかし、大戦末期にはナチス占領下に置かれ、ファシズム政権に支配されることになります。
1945年2月13日、ソ連によってブダペストがファシズム支配から解放され、自由の道を進むことになってゆきます。
地上高約40mに掲げられた葉
この像は、自由をもたらしてくれたソ連を称える慰霊碑として、ハンガリー国民によって建設されました。自由の像が両手に掲げているものは椰子の葉であり、ハンガリーの平和の象徴と呼ばれるものです。女性のふもとにある2体の像は「前進」と「悪との戦い」を意味しています。
しかし、ソ連からもたらされた自由の道は、皮肉にもソ連の共産党主義体制によってすぐさま閉ざされることになります。1956年、ソ連の支配と圧制に対して市民が大規模なデモを蜂起しました。俗に言う、ハンガリー動乱です。
ゲッレールトの要塞「ツィタデラ」
ツィタデラの成り立ち
自由の像が建っている丘の少し先を進んだところに、「ツィタデラ」という建物があります。これは、古代ギリシアの建造物を彷彿とさせるような堅牢な要塞です。1848年~1849年に、ハプスブルク帝国がハンガリー独立運動を鎮圧した後、ブダ・ペストの両地区、王宮を監視するために建設されました。
ゲッレールトの丘は、単に景観が良い場所ではなく、当時はその立地を生かした占領や統治に利用されていた過去があったのです。
ブダペストに生きる歴史の跡
ハンガリー動乱では、ツィタデラも軍事利用されました。ソ連軍がツィタデラを占拠し、ゲッレールトの丘からブダペスト市内に向けて大砲が放たれました。これによって、市民など約2万人以上が犠牲となり、今なおぺスト地区の民家やお店には砲弾の跡が痛々しく残っています。
写真の窓の部分から当時は監視を行い、大砲にいつでも点火できるように砲兵が構えていたと言われます。ツィタデラの岩壁も崩れている箇所が所々あります。今なお生き続けている歴史といえます。
ゲッレールトまでのアクセス
ゲッレールトの丘へのアクセスは、ブダペスト市内からバスやトラム(路面電車)などを使い、途中から整地された斜面道を歩いて登ることになりますが、それでも約30分前後で見に行けるスポットです。夜は自由の像とツィタデラがライトアップされ、神々しい雰囲気に包まれます。
ブダペストの繊細で美麗な街並みをより自由の像の目線で臨むことができるゲッレールトの丘。目の前の景色ももちろんですが、その歴史にまで目を向けた上で、改めてブダペストに根付いた日常や脈打つ鼓動を感じ取ることができるのではないでしょうか。