神戸の中心街である三ノ宮にありながら、豊かな緑に囲まれた生田神社。生田神社の境内には、平敦盛が深く愛した「敦盛の萩」や、源氏の若武者・梶原源太景季(かじわらのげんたかげすえ)ゆかりの「箙(えびら)の梅」、 武蔵坊弁慶が源義経の代理で奉納したとされる「弁慶の竹」など、源平ゆかりの史跡がたくさんあります。今回は、1,800年以上の歴史を有する古社・生田神社の歴史とともに、源氏、平氏との縁や、境内の見どころをご紹介したいと思います。
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生田神社とは
生田神社は1,800年以上の歴史を有する古社で、生田の神を守る家・神戸(かんべ)が神戸という地名の語源になったと伝わる、地名の発祥地でもあります。
その歴史はたいへん古く、日本書紀にも、神功皇后元年(201年)、神功皇后の三韓外征(朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争を指す)の帰途、神戸港で船が進まなくなったので神占を行ったところ、御祭神である稚日女尊(わかひるめのみこと)が現れ、生田の地に祀るよう神託があったと記されています。
神階は従一位。律令制下において名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である“名神大社”の1つとされており、近代社格制度のもとでも、1871年には県社に列格、1885年には官幣小社に、1896年には官幣中社に昇格しました。
境内の見どころ
源平合戦の古戦場・史跡 生田の森
生田神社の境内北側には鎮守の森が広がっており、「生田の森」と呼ばれ親しまれています。
月や花の名所として名高い生田の森ですが、一ノ谷の戦いでは源平合戦の戦場になったことでも知られ、寿永三年(1184年)2月、平知盛を大将とする平家軍が生田の森に陣を敷き、そこへ源範頼の軍勢が攻め入ったことで、一ノ谷から生田の森へかけ一帯が源平合戦の戦場となりました。
その後も、室町時代の南北朝戦争や、戦国時代の荒木村重の謀反による織田信長との戦でも戦場になるなど、生田の森は数多の戦を見届けて来た歴史ある古戦場なのです。
箙の梅
生田神社の境内には、「箙(えびら)の梅」と呼ばれる梅の木があります。
この梅の木には、源平一ノ谷合戦の際、源氏の若武者・梶原源太景季(かじわらのげんたかげすえ)が、満開の梅を一枝手折って箙(※弓を入れて背負う武具)に挿して奮闘し、坂東武者にも雅を解する者がいると敵味方問わず賞賛を浴びたという伝承が残されています。
梶原の井
楼門の手前、右側に見えるのは「梶原の井」。
別名「かがみの井」とも云われ、梶原源太景季が井戸の水を汲んで生田の神に武運を祈った時、その咲き盛った箙の梅の花影が水に映ったと伝えられています。
敦盛の萩
楼門をくぐってすぐの植え込みには、一ノ谷の合戦で熊谷直実に討たれた平敦盛が愛でたと伝わる、「敦盛の萩」が残されています。
敦盛の死後、その遺子がたまたまこの萩の木陰で休み、夢の中で亡き父・敦盛に会ったと云われており、その伝承は「謡曲生田敦盛」として今日まで語り継がれています。
弁慶の竹
境内にある「弁慶の竹」は、武蔵坊弁慶が源義経の名代で、平家打倒と源氏の繁栄を祈念して奉納した竹と伝えられています。
ややわかりにくい場所にあるので、もし見つからない時には神社の方に訪ねると、快く教えてくれます。
- 生田神社
- 神戸 / 神社 / インスタ映え / パワースポット / 縁結びスポット
- 住所:神戸市中央区下山手通1丁目2-1地図で見る
- 電話:078-321-3851
- Web:https://ikutajinja.or.jp/