大船遺跡は、太平洋に面した土地にあり、縄文時代前期後半から中期後半(紀元前3,200年~紀元前2,000年頃)で、今から5,000~4,000年前の人々の暮らしぶりを伺うことができる大規模な集落遺跡です。自分のルーツでもある縄文時代の様子を、見て・触れて、体感してみませんか?
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国指定史跡「大船遺跡」とは?
大船遺跡は、1996(平成8)年から発掘調査が開始され、なんと100軒以上の住居跡が見つかっている大集落跡のことで、2001(平成13)年に国指定史跡となった歴史的な遺産です。
場所はこちらで、函館駅から車で約70分の所にあります。
看板の右側に指定面積が写真とイラストで紹介されています。右上の写真には民家が写っており、対比すると、かなり広い面積だということと、小高い丘の上にあることが分かります。
小高い丘を登ったところに、広い遺跡群が広がっています。
そして遺跡群の横には、史跡大船遺跡管理棟が建っており、中には発掘の様子などを知ることができる多くのパネル展示があります。
では早速、遺跡群を歩いてみましょう!
竪穴式住居が復元されている大船遺跡
復元された竪穴式住居前に立つと、眼下には見渡す限りの太平洋が広がります。
史跡大船遺跡管理棟のスタッフさんによると、縄文時代は今よりも海面が高く、もっと海が近かったそうです。5,000~4,000年前の人々は、目の前には海、背後には山という絶好の立地条件で、海の幸・山の幸に恵まれた暮らしをしていたと想像してしまいます。
この遺跡からは縄文中期の住居跡が120以上発見され、なかには長さ8~11メートル、深さ2メートル以上の非常に大きな規模のものがあります。
案内板の右側の写真には、実際に人が作業している光景が写っているので、とても広くて深いことが分かります。
100棟を超える竪穴建物跡から成り立つ住居域と大規模な盛土遺構があり、その周りには100基以上の墓が確認されています。盛土遺構とは、「掘り起こした土、使われなくなった道具、動物や魚などの骨を自然に帰す行為(送り)を行っていた場所」だと考えられているそうです。
余談ですが、この場所を訪れる前日は、前線通過の影響により警報が出るほどの激しい雨で、JRは運転を見合わせたり、一部の道路は通行止めになる状態でした。少し心配しながら翌日行ってみると、これらの住居跡には水が溜まっていませんし、どこも傷んでいませんでした。前述のスタッフさんに聞いてみると、遺跡を守るための対策として、土の上から薄いコーティングをし、また、雨を地中に逃がすような工夫をしているそうです。
屋外にある遺跡展示・管理の、難しさと対策の凄さを感じました!
発見された竪穴建物跡は、床を2m以上深く掘り込んだ大型の建物が特徴的で、マグロ、クジラ、オットセイ、鮭、牡蠣などの魚介類の骨やクリ、ヤマブドウ、栗、トチといった木の実などの動植物遺体が出土し、自然と共存した豊かな生活を営む当時の人々の暮らしを知ることができます。
多量の遺物が出土している盛土遺構は、「捨て場」としての役割のほか、アイヌ民族の「送り」にも通じる概念が存在していたと考えられているそうです。
縄文時代中期の拠点集落
1996(平成8)年からの調査結果では、発掘した多くの竪穴建物跡や貯蔵穴、墓などの遺跡から、当時の人々の暮らしぶりや、この場所で長期間にわたり集落が営まれていたということが分かるようです。
そして、この場所で長期間にわたり集落が営まれていたことから、当時のこの地域が、安定して生活できるだけの自然環境に恵まれていたことを示すと同時に、多量の土器や石器等の遺物が出土した盛土遺構の存在からは、活発な交易が行われた集落として栄えたことが想像できるようです。
この頃のご近所付き合いがどのようなものであったのかなど、想像が広がります。
重なり合う建物
大船遺跡では、多くの建物が重なり合って見つかりました。同時に当時の土器も出土し、分析の結果、年代によって様々な形態や特徴が見えてくるようです。
特徴の一例として、建物内部には、炉や儀式が繰り返し行われたと見られる痕跡があることから、同一集団によって長期間にわたって集落が営まれていたと考えられています。