写真:toshelウルは、古代メソポタミア文明の中でも特に重要な都市のひとつです。現在のイラク南部ナーシリーヤ近郊に紀元前3800年頃から存在し、シュメール人によって築かれました。かつては商業、宗教、行政の中心地として栄え、数多くの建造物や文化遺産が発掘されています。
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古代メソポタミア文明とその後の世界、人類への影響
古代メソポタミア文明は、世界の歴史において極めて重要な影響を与えた文明のひとつです。紀元前3000年頃にシュメール人によって発展し、その後アッカド人、バビロニア人、アッシリア人などによって継承されました。ウル遺跡は人類の文明の発展を示す重要な遺産であり、古代メソポタミアの社会構造、宗教観、技術力を後世に伝える役割を担っています。また、この文明は政治、法律、宗教、科学、技術などさまざまな分野に影響を与えました。
※バビロニア遺跡の詳細はこちらです。
都市文明の発展
メソポタミアでは都市国家が発展し、各都市が独自の王や支配者のもとで統治されました。ウル、ウルク、ラガシュなどの都市がその代表例です。これらの都市は高度な都市計画を持ち、道路、神殿、宮殿が整備されていました。この都市文明の概念は、古代ギリシャやローマの都市国家へと発展し、現代の都市形成にも影響を与えています。
文字の発明と記録文化
メソポタミア文明では楔形文字が発明されました。シュメール人によって開発されたこの文字は、粘土板に刻まれる形で使用されました。これにより、財政記録、法律、文学作品などの情報が記録され、文明の発展に貢献します。後に、この文字はアッカド語やバビロニア語にも応用され、エジプトのヒエログリフやフェニキアのアルファベットにも影響を与えました。
法律と統治システムの確立
メソポタミア文明では、法典の制定が行われました。その代表例が「ハンムラビ法典」です。この法典は紀元前18世紀にバビロンの王ハンムラビによって作られ、「目には目を、歯には歯を」という報復法の原則を示しました。このような法典の存在により、法律による統治の概念が確立され、後の社会制度に大きな影響を与えました。
宗教と神話の影響
メソポタミア文明では、ナンナ(月の神)、エンリル(風の神)、イシュタル(愛と戦いの女神)など多くの神々が信仰されました。また 「ギルガメシュ叙事詩」という文学作品が誕生し、これは後の文学や宗教思想に影響を与えました。例えば、「ノアの洪水伝説」はメソポタミアの洪水神話から影響を受けた可能性があります。
科学と数学の発展
メソポタミアの数学者や天文学者は、60進法を採用して計算を行い、これが後の時間計算や角度測定に使われるようになりました。例えば、1時間が60分で構成されるのはメソポタミアの影響です。また、彼らは天文学を発展させ、惑星の動きを観測し、暦を作成しました。この知識は、後のギリシャやイスラム世界の天文学に影響を与えました。
農業と灌漑技術
メソポタミアはチグリス川とユーフラテス川の間に位置し、この地理的条件を活かして 灌漑農業を発展させました。水路を築き、定期的な洪水を管理することで、農業生産を効率化しました。この技術はエジプトやインダスにも伝わり、農業発展の基礎となりました。
このように、古代メソポタミア文明は、人類の社会形成、文化、科学技術において非常に大きな影響を与えました。法律や都市文明、文字、宗教、数学、農業技術など、現代文明の根幹となる多くの要素がこの時代に生まれました。メソポタミアの知識と技術は、その後の世界の発展に深く関与し、現在もその影響が見られます。これが、メソポタミア文明が「人類の文明の母」とも称される理由です。こうした歴史の流れを考えると、古代メソポタミアの人々の知識と努力が、今の社会につながっていることが実感できます。
メソポタミアの中心となる古代都市ウルの歴史
古代都市ウルは、紀元前3800年頃シュメール人によって築かれました。ウルには先史時代のウバイド朝やウルク朝からアケメネス朝ペルシアに至るまで、5,000年以上にわたり多様な文化圏の人々が居住していました。シュメール王名表には、ウル出身の王朝が3つ記されています。
- 第1王朝は177年間統治したと伝えられている。
- 第2王朝は116年間統治したと伝えられています。
- 第3王朝は108年間(紀元前2112年頃~紀元前2004年)にわたり統治しました。※考古学的記録に明確に記録されているウル王朝は、この王朝のみです。ウルはこのころに最盛期を迎え、シュメール文明の重要な都市国家として君臨しました。
シュメール人が築いた法律、行政システム、都市計画は後の文明にも大きな影響を与えました。例えば、ウル・ナンム王が制定した「ウル・ナンム法典」は、人類最古の法典のひとつとされ、古代の統治システムの発展に寄与しました。また、王ウル・ナンムやその息子シュルギによって都市の拡張と統治が進められ、都市計画を推進するなど、メソポタミア文明の発展に貢献します。
しかし、ウルは紀元前300年頃に放棄されました。この頃にはユーフラテス川は街から遠く離れてしまっております。レンガ造りの街の残骸は、2,000年以上もの間、砂に飲み込まれ埋もれていました。
ウル遺跡の遺構
それでは、ウル遺跡の遺構をご紹介します。
ウルのジッグラト(Ziggurat of Ur)
紀元前21世紀にウル・ナンム王によって(紀元前2112年 - 2095年)に着工し、その息子シュルギ(紀元前2095年 - 2047年)によって完成されました。
ジッグラト(Ziggurat)は、古代メソポタミア文明で建設された階段状の神殿建造物です。シュメール人、アッカド人、バビロニア人、アッシリア人などによって築かれ、主に宗教的な目的で使用されました。ジッグラトの構造はピラミッドとは異なり、頂上に神殿が置かれることが特徴です。
※バグダッド近郊のドゥル・クリガルズのジッグラトはこちらです。
ウルのジッグラトは、葦と瀝青をモルタルとして用いた日干しレンガを用いられ、四隅は方位磁針の基本方位と一直線になります。また、3つの階段のうち中央階段は上層神殿に直接通じています。
2つの横の階段は最初の段階まで上り、そこで中央の階段と合流します。「アル・サブト」として知られる内側に傾斜した工学を用い、建物をより高く見せ、より壮麗で格調高い印象を与えるよう設計されています。そして、外壁と内壁には装飾的なバットレスが設けられ、どちらも建築物の強度を高め、美観を高める役割を果たしました。ジッグラトに設けられた長方形の穴は、建物への水の浸入を防ぐ排水路として機能しています。
上部神殿はウルの主神であり月神のナンナ崇拝に捧げられるなど、シュメール人の宗教儀式の中心地でもありました。また、ウルのジッグラトは古代メソポタミア文明における宗教的な信仰と祭祀の発展を示し、その建築様式は後にバビロンの「バベルの塔」にも影響を与えたと考えられています。
ドゥブラル・マフ寺院
ジッグラトの直ぐ隣りにあるのが、ドゥブラル・マフ寺院 。「石板の家」という意味で、第3王朝の3番目の統治者であるアム・アル・シンの治世中に建設されたと考えられます。当初は、ジッグラトに通じる入り口として、また石板の保管庫として機能し、その名前の由来となっています。
考古学者によると、「ウルの建物の中で最も重要な建物の1つであり、最も長い歴史を誇る。」といわれ、アーチ型の出入り口はクリガルズ時代(紀元前1400年頃)、現存する最古の本物のアーチの1つなのだとか。
王家の墓(Royal Cemetery)
ウル遺跡で発掘された王家の墓とその周囲の個人墓地は、初期王朝時代III期(紀元前2600年頃~2350年)に遡ります。
王家の墓のほとんどは古代に略奪されていましたが、略奪されずに発見された紀元前26世紀のものとされる「プアビ王妃(Queen Puabi)」の墓からは、頭に2キロ以上の金と宝石を、体にさらに3キロの宝石を身につけられているなど、豪華な黄金の装飾品や貴重な副葬品が発見されました。これらは、シュメール王族の埋葬習慣や社会階層の構造が明らかになるとともに、当時の職人技術や王権の象徴としての役割を示しており、メソポタミアの文化的な豊かさを証明しています。
住宅地区
ウル遺跡には一般市民が暮らしていた住宅地区も発掘されています。住居は日干しレンガで構築され、井戸や貯水施設も整備されていました。これにより、ウルの市民が高度な都市生活を営んでいたことが分かります。
世界遺産
ウル遺跡は、古代メソポタミア文明の歴史を物語る貴重な文化遺産であり、その壮麗な建造物や貴重な遺物は、紀元前の人々の生活や文化を知る手がかりとなります。シュメール文明の中心として栄えたウルの遺跡は、歴史の奥深さを感じさせる貴重な世界遺産のひとつです。
ウル遺跡の入場料
ウル遺跡の入場料は250,000イラク・ディナール(およそ2,800円(2025/5現在))
ウル遺跡(エ・テメン・ニグル)への行き方
現在(2025/5)、日本からイラクへの直行便はありませんので、中東を経由して行きます。遺跡に近い都市ナーシリーヤへは、南部の都市バスラにある国際空港が一番近いです。ナーシリーヤ市内から遺跡までは車で30分。タクシーの場合、往復と滞在時間を合わせて150,000イラクディナール(およそ1,800円(2025/5現在))を目安に交渉するとよいです。
















































