オスマン帝国の帝都として栄えたトルコのイスタンブールには、当時の名残をいまに伝える美しい宮殿が数多く残されています。スルタンが住まったトプカプ宮殿やドルマバフチェ宮殿のほか、ガイドブックにはあまり載っていない穴場の宮殿もご紹介します。
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1.トプカプ宮殿
コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を攻略し、東ローマ帝国を滅亡に追いやったオスマン帝国のメフメト2世が建設を開始したのが、イスタンブール旧市街の岬に建つトプカプ宮殿です。
メフメト2世の時代に建設が開始されましたが、その後スルタンが代替わりするたびに増築、改修され続けました。その結果、トプカプ宮殿は一つの大きな建物ではなく、敷地内にいくつもの大小様々な建物が迷路のように建ち並ぶ構造になりました。
ハレムは特に見どころ
特に贅を凝らした造りとなっているのが、スルタンやその母親(ヴァリデ・スルタン)、スルタンとの間に子をもうけた女性(ハセキ・スルタン)、スルタンのために異国から連れてこられた女奴隷たちが住んでいたハレムです。
ハレムは、豪華絢爛な皇帝の間のほか、女奴隷たちが住んでいた薄暗い部屋や風呂場、礼拝の間、ヴァリデ・スルタンの部屋などが迷路のように連なった造りとなっています。
2.ドルマバフチェ宮殿
トプカプ宮殿は建設以来オスマン帝国の政治や文化の中心となって栄えましたが、19世紀、アブデュルメジト1世の時代になると、西洋化の波に乗るべく、新しい宮殿が新市街に建設されました。トプカプ宮殿に代わり、オスマン帝国の新たな政治、文化の中心となったのがドルマバフチェ宮殿です。
この宮殿は、当時のオスマン宮廷お抱えの建築家、バルヤン一族によって設計されたもので、西洋の建築要素の中に、従来のオスマン建築の要素が見事に組み込まれた大作となっています。スルタンやその家族が、公道に出ず、宮殿から直接ボスポラス海峡に船を出して街に出られるようにと、宮殿は海峡沿いギリギリのところに建設されました。
3.ベイレルベイ宮殿
ドルマバフチェ宮殿を建設したバルヤン一族は、アブデュルアジズの命を受け、アジア側にも西洋風のベイレルベイ宮殿を建てました。1865年に完成したベイレルベイ宮殿では、スルタンが暑い夏を過ごし、ときには各国の要人を迎え入れるために使われていました。
またベイレルベイ宮殿は、アブデュルハミト2世がギリシアのテッサロキニで幽閉されていたのち、1912年にイスタンブールに帰還し、その後亡くなる1918年までの約6年間を過ごしていたことでも知られています。
4.ウフラムル宮殿
ウフラムルとはギリシア語に由来し、日本語でいうところの「菩提樹」に相当します。ウフラムル宮殿はベイレルベイ宮殿と同じく、スルタンの夏の宮殿として新市街のベシクタシュに建設されました。アブデュルメジトの時代に造られたもので、設計を手掛けたニゴアヨス・バルヤンは、オルタキョイにあるモスクを設計したことでも知られています。有名な建築家の設計であるのにも関わらず、ガイドブックにはあまり載っていない穴場の宮殿です。
ウフラムル宮殿の庭にはマグノリアの木がたくさん植えられており、春先になると多くの人が花見に訪れます。
5.チュラーン宮殿
現在はホテルとして利用されているチュラーン宮殿ですが、元はアブデュルアジズがバルヤン一族に設計を命じて造らせた宮殿でした。オスマン帝国後期になると、スルタンは自分の治世になると先代が住まった宮殿に住まうのではなく、自身の宮殿を新たに建設することを好みました。
チュラーン宮殿はこのオスマン帝国のスルタンの風習に倣って造られた最後の宮殿。ボスポラス海峡をクルーズしているときに必ず目に留まる、存在感溢れる宮殿です。
- チュラーン パレス ケンピンスキー
- イスタンブール / ホテル
- 住所:Ciragan Caddesi 32, イスタンブール地図で見る
- Web:https://jp.lhw.com/hotel/ciragan-palace-kempinski-...
おわりに
造られた時代によって様式が異なる宮殿は、年代別に見ていくとまるでイスタンブールが辿った歴史の縮図のようにも捉えることができます。オスマン風から徐々に西洋風に変化していく宮殿にぜひ足を運び、この街の建築の歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。