日蓮が開いた最古のお寺である「妙本寺」は、鎌倉で最大級の木造の仏堂を持つお寺です。境内に圧倒的な雄大さでたたずむお堂は、ただ大きいだけではありません。お堂や境内の門には、お寺の多い鎌倉でもなかなか珍しい、艶やかに彩色された彫刻が施されていて、見ごたえがあります。最大級のお堂は、縁側でノンビリするスペースもあり、とっておきの旅としてオススメしたい場所でもあります。そんな「妙本寺」の魅力をご紹介します。
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「妙本寺」ってどんなところ?
鎌倉にあるお寺「妙本寺」は、日蓮が開いた日蓮宗のお寺のなかで最も古いお寺です。
寺院を創建したのは、比企大学三郎能本(ひきだいがくさぶろうよしもと)です。昔の人は名前が長いですね。本記事では、比企能本(ひきよしもと)と略称でご紹介いたします。
「日蓮」×「比企能本」のタッグで、この「妙本寺」が創建されたのですが、そこにはどんな理由があったのでしょう?
比企能本の一族、「比企一族」はとっても優秀な一族でした。
鎌倉のスーパースター「源頼朝」の乳母を務めたり、同じく源頼朝の右腕の家臣として活躍したり、源家に側室に入ったりと、とにかく鎌倉の中核にガッシリと入り込んでいた一族でした。
しかし、そういう華々しい活躍をうっとうしく思うライバルは、いつどの時代でもいるもの。
特に、「源頼朝」の奥さんの「北条政子」の実家の北条家が、この比企一族の活躍を快く思ってはいませんでした。
そして、1203年に北条家によって、比企一族は滅ぼされてしまうのです。この事件は「比企の乱」と呼ばれています。
この比企の乱のとき、たまたま鎌倉から離れて、京都にいたのが「比企能本」でした。比企能本は、ずっと一族の菩提を弔ってくれるにふさわしい僧を探していました。
そんなとき、日蓮に出会い、その考えと人柄に触れるにつれて、「この人こそが我が一族を弔うにふさわしい人だ!」と思い、自分の屋敷を日蓮に寄付し、お寺としました。そして、鎌倉で最大級の木造建築のお堂が建てられたのです。
妙本寺の入り口
妙本寺はJR鎌倉駅から、あるいて10分程度。ノンビリとした住宅街を歩いていくと、住宅の中に、溶け込むようにお寺の入り口が見えてきます。
この石碑、よく見てみてください。刻まれている文字が、まるで筆で勢いよく書いたように、トメやハネが伸びています。
「南無妙法蓮華経」と書かれていますが「ひげ文字」と呼ばれる日蓮宗が好んで使うフォントで書かれています。
ここから100メートルほど歩くと背の高い山門が見えてきます。
山門の横にも小型の石碑が。やっぱりここもひげ文字で彫られています。
この山門と石碑の後ろには、特徴的な多角形の建物が見えてきます。実はこれ幼稚園です。とっても立派な建物なので、ついついお堂かと思って参拝してみたくなりますね。
木立に隠れた参道
山門をくぐり、幼稚園を脇に正面の道を進むと、民家の間に、山の入り口のような緑が見えてきます。
緑が濃すぎて、この先に道が続くとは思えないほど。この先を進んでいくと、背の高い木々に囲まれて、涼しげな景色の参道が続きます。駅や大通りから近い立地ながら、この豊かな緑に周囲の音が吸収されて、とっても静か。急に異世界に入り込んだようです。
妙本寺はこの豊かな緑も楽しみのひとつ。参道を一歩ずつ踏みしめていくと、ゆっくりとした時の流れを楽しめます。
二天門
参道の階段を登りきったところに現れるのが、こちらの「二天門」。推定1840年頃、建てられたとされる門です。
この二天門、見どころなのは正面にまっさきに目に入る、鮮やかな彫刻。丸みを帯びて立体的な彫刻は、彫りも深く、しっかりと彩色されています。こういった彫りは、お寺の多い鎌倉でもなかなか見られないもの。
彫刻のモチーフは、翼の付いた龍が、荒波を乗り越えているところです。本来、日本の龍には翼はありません。龍は東洋から西洋に伝わるにつれて羽が生えていきました。
体の形状も蛇のように長いフォルムから、だんだんとタツノオトシゴのような短い体になっていきました。
再度彫刻を見てみると、東洋の龍というよりは、西洋のドラゴンに近いようです。
二天門は彫刻だけではありません。両サイドに二体の像が安置されています。左から多聞天(毘沙門天)、右側が持国天です。
お寺で門の両サイドに置かれる像として、よく見かけるのは仏教界のボディーガードである金剛力士です。
こちらは多聞天と持国天です。多聞天と持国天は、仏教界で東西南北を守る四天王のメンバーのうち2人。つまりこの2人も、ボディーガード系の神様なんですね。