マヤ文明は、「日常的に人を生贄(いけにえ)に捧げていたこと」と「精密な天文学」を併せ持っていた文明として有名です。その中でも古代都市【チチェン・イッツァ】の遺跡では、マヤの最高神「ククルカン」への熱い信仰、現代コンピューターもびっくりな「天文学」の正確さ、また「生贄」が決められていた場所や「生贄の儀式」など、様々なマヤ文明を間近に見ることができます。今回は、チチェン・イッツァ遺跡巡りと、合わせて訪れることをおすすめしたい天然の泉「セノーテ・イキル」も一緒にご紹介します。
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マヤ文明における【チチェン・イッツァ】とは?
紀元前3世紀という大昔から、スペインの侵略により植民地化される16世紀まで続いたマヤ文明。中でもチチェン・イッツァは、3世紀〜6世紀のマヤ文明の特色が一番顕著に現れていると言われる遺跡です。だからこそ見どころもたくさん!
それと同時に、ミステリーもたくさん!まだまだ未解明となっている部分の多いマヤ文明だからこそ、多くの人たちを魅了しています。
そんなミステリー満載なチチェン・イッツァの主な見どころをご紹介します。
ククルカンが降臨する【エル・カスティーヨ】
チチェン・イッツァで最も代表的な遺跡といえば「エル・カスティーヨ」。カスティーヨとはスペイン語で「要塞」という意味ですが、侵略してきたスペイン人はそのような印象を持ったのでしょう。実際は、要塞ではなかったようです。
内部にはもう一つ、国王の棺が置かれている小さなピラミッドがあり、それを覆うように外側のピラミッドが作られています。
別名“ククルカンの神殿”
マヤ文明遺跡では、あちこちに「蛇」を模ったものが見られますが、これはククルカン=羽毛のある蛇と呼ばれるマヤの最高神です。
エル・カスティーヨが「ククルカンの神殿」とも呼ばれる理由は、年に2度だけ、光と影によって、階段の側面にピラミッドを降りてくるようなククルカンが浮かび上がるからです。
これは ククルカンの降臨 と呼ばれ、その日は全世界から観光客が大勢押し寄せるのだとか。
この「年に2度だけの日」というのは、昼と夜の長さが同じになる「春分の日」と「秋分の日」。すなわちマヤの人たちは、昼と夜の長さが同じになる日を知っていた、ということになります。
ピラミッドの段数を数えてみよう!
このピラミッドを成型している階段の段数にも、とても驚くべき意味があります。それは、マヤ歴を表している、いわゆるカレンダー。
基壇は9段ありますが、中央の階段で2分割されているため、1つの側面では合計で18段。
これは、マヤ文明で用いられていた「ハアブ歴」が、1年を18ヶ月としていたからだと考えられています。
また、各側面の中央にある階段は91段。
これが4面あるため91×4=364、そして最上段の1段を加えることで365、すなわち1年(365日)を表しているというのです。ということは、マヤ文明では1年が365日であることも既に分かっていたのですね。
天文台【カラコル】
古代から、このような天体観測のための建物があることも驚きですが、ただ夜空の星の動きを観測していただけではないようです。四角い窓から差し込む太陽や月の光もあわせて、何年、何十年もかけて肉眼で観測し、正確に暦を捉えていったのだと考えられています。
さらに驚くべきことは、近代はコンピューターにより1年は正確には365.2422日と算出されていますが(端数のズレを正すべく、現代では「うるう年」などが設定されています)、マヤ文明では365.2420と、ほぼ誤差なく計算していたんだとか!
人が生贄とされていた!?【球戯場】と【ツォンパントリ】
これだけ天文学が進んでいた文明に相反するかのように、神や自然を畏れ敬い日常的に行われていたのが「生贄」。家畜が生贄とされている文明もありますが、マヤ文明では「人」が生贄でした。
生贄は球技で決められていた?!【球戯場】
「球戯場」といってもスポーツを楽しむ場所ではなく、実際は生贄を決める儀式の場所だったようです。
マヤ文明の各遺跡には、他にもいくつか「球戯場」が遺されており、日常的に生贄を決めていたと考えられています。そんな中でも、チチェン・イッツァにある球戯場は、このエリアでは最大級だとか。
ルールについては諸説ありますが、壁の上部に、穴の空いた岩で作られたリングがあり、手を使わず腰や足を使ってボールをリングの穴に入れた方が「勝者」となったと言われています。
勝者が生贄になる?!壁面の彫刻に見応えあり!
「球戯場」の壁面にはゲームの様子やルールなどが描かれており、未だ全容は解明されておりません。面白いのは、敗者ではなく「勝者が生贄になっていた」という説。
球を表す円形の中には、右を向いたドクロ。その右側には、首がなく血しぶきが飛んでいる…すなわち生贄とされた選手がひざまずいています。
血しぶきの形が「蛇=ククルカン」のようにも見えるため、“勝ったものが神の元へ行ける”という名誉な死=生贄に身を捧げたのだ、と。
敗者はというと、その場でただ処刑されたんだそう。
しかしこれらの説は、あくまでこの壁画を見た専門家による分析。文献などはスペイン人が侵略した時に焼き尽くしたためか、各遺跡の意味を確証するものはなく、未だに謎が多く残っています。
多くの謎があるからこそ、多くの人たちを魅了しているともいえます。
生贄になった人の首が並べられた【ツォンパントリ】
頭蓋骨がびっしりと彫り込まれたこの遺跡は、生贄になった人たちの首が並べられたと言われています。一つ一つ頭蓋骨の形が違うのも、また見応えがあります。