現在のイラン南部にあるペルシア帝国時代の遺跡「ペルセポリス」には、他国の遺跡には見られない興味深いレリーフが遺っています。支配下だった各国の朝貢者がどのような衣装でどのような貢物を携行して訪ねて来たのか?今回は、古代オリエントの国々の様子を如実に遺している、筆者にとって世界で一番興味深い遺跡をご紹介します。
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ペルシア帝国アケメネス朝の歴史
イラン南部にある砂漠近くの乾いた大地に、古代オリエントを統一した大帝国の都がありました。紀元前550年ごろ成立したペルシア帝国は、初代国王キュロス2世が周辺の強国であったメディア、リディア、新バビロニア、果てには中央アジアのバクトリアやソグディアナまでも征服して、空前絶後の広大な大帝国を築き上げます。
- 出典:commons.wikimedia.org緑部分はアケメネス朝の統一範囲
ペルシア帝国の都ペルセポリス
そして、のちにペルシア帝国の王を引き継いだダレイオス1世は、紀元前520年から現在のイラン南部ラフマト山の麓に、総面積125,000㎡にもおよぶ「ペルセポリス」の建設に着手しました。
ペルセポリスは、ダイオレス1世の息子クセルクセス1世、その息子アルタクセルクセス1世の代まで60年間にわたって継続して建築が行われ、宮殿群をはじめ支配下各国から使者を迎える広間や、それらの財宝を保管した宝物殿など、莫大な富と強大な勢力を誇示する壮麗な建築群が建設されました。
ペルセポリスの崩壊
しかし紀元前330年、ペルセポリスに侵入したアレクサンドロス大王は、これらの美しい建築物を焼き討ちし陥落させます。火の海となったペルセポリスから人々は逃げ、廃墟となったペルセポリスの壮麗な宮殿を破壊しつくしたアレクサンドロスは、宝物庫に保管されていた全財宝を、すべてマケドニアへ持ち帰ります。膨大な数の財宝を運ぶために、10,000頭のロバと5,000頭のラクダを要したといわれています。
ペルセポリス遺跡群(世界遺産)
かつて世界の中心と呼ばれたペルシア帝国の都ペルセポリスは、現イランで最大の遺跡です。実務的な行政都市だったスサに対し、儀式や祝祭を行う神聖な役割をもったペルセポリスは、とにかく煌びやかでそこに存在する全てが豪壮絢爛だったといわれています。ペルシア帝国アケメネス朝の栄華を結集したペルセポリスは世界遺産にも登録され、その規模や発掘された文化財からレバノンのバールベック、ヨルダンのペトラとともに中東の三大遺跡と呼ばれています。
それでは、世界中の遺跡を訪ねる筆者も震えた古代都市遺跡、ペルセポリスをご紹介します。
クセルクセス門(万国の門)
ペルセポリスの正門となるクセルクセス門は、ダレイオス1世の息子クセルクセス1世が建造しました。正式には「万国の門」と称されています。人々を出迎える正面には人面無翼獣身像があります。愚像崇拝を忌むイスラム教徒によって、後年に顔全体を破壊されてしまっています。
しかし、正門を潜り抜けていくと、
反対側にあるペルセポリス側へ向いた人面有翼獣身像は、顔こそ少々潰されているものの当時の姿を保っています。人の顔に動物の体、そして翼のあるこの像は、宮殿全体と俗界の境界神として、ペルセポリスの聖域を守護する役割があったとされています。
また、正面の像が「無翼」なのに対し、宮殿側の像が「有翼」なのは、俗と聖域の境地を意味しているといわれています。日本でいう神社の鳥居と同じですね。
儀杖兵の通路と双頭鷲の像
クセルクセス門を背にすると、まっすぐに延びた儀杖兵の通路があります。儀礼や警護のために武器や武具を身に着け、高位の者の警護に当たる将兵の通る道です。
その先には、鷲の頭とライオンの下半身をもつ双頭の鷲。のちのローマ帝国やヨーロッパの貴族などに好んで使われ、現在でもアルバニアの国旗に使用されるなど主にヨーロッパで好まれていますが、元はバビロニアなど初期メソポタニアが発祥です。
百柱の間
双頭の鷲を背に進むと「百中の間」が現れます。クセルクセス1世が着工し、アルタクセルクセス1世が完成させた、かつて100本の柱が支えたペルセポリス最大の広間です。
今となっては見る影もありませんが、デザインの美しい柱礎だけは等間隔に並んでいます。百柱の間には、帝国の繁栄と富を象徴する展示物が所狭しと並んでいたそう。自国軍隊と接見するなど、大人数を収容する際に使用されたようです。
中央宮殿
百中の間をさらに進むと中央宮殿があります。
中央宮殿は「会議の間」とも呼ばれ、ペルシア人やメディア人が集って会議をする場でした。彼らが中央宮殿へ向かう様子のレリーフは、ペルセポリス内の壁にあちこち彫られており、ほとんどの人が酒杯を持っています。これらは実際、彼らがお酒を飲みながら会議をしていたことを表現しています。
片手に酒杯、もう一方は前後の人と手を繋ぐなど、どことなく楽しそうに見えます。きっと壮大なテーマを、若干酔いながら自由闊達に話し合っていたのではないでしょうか。
現在のイランでは、宗教上の理由からアルコールを飲むことは固く禁じられていますが、当時のペルシア帝国では、事あるごとに酒席が設けられており、世界のTOPに立つ余裕なのでしょうか。若干、浮かれている様子も垣間見えます。
そのほかの習慣的な部分(例えば同性愛など)でも、当時のペルシア帝国と現イランは真逆の政策を課している点が多く、ペルシア帝国時代の浮世離れを、アレクサンドロスに簡単に突かれて滅びた当時を戒めているようにさえ感じられます。
タチャラ
タチャラは、「冬の宮殿」という意味のダレイオス1世プライベート用宮殿です。
ペルセポリスの他の建築物に比べ、それほど破壊されずに満遍なく遺っており、当時の様子を想起しやすくなっています。
こちらは、牡牛に噛みつくライオン像です。このレリーフはペルセポリス内のあちこちで見られます。「順調な季節の移り変わりを示している」という説と、「強大な権力を誇示した」という2つの説があります。
季節の移り変わりに関しては日本でも同じですが、北半球では冬に牡牛座、春には獅子座が天上に輝きます。星座の起源は、少なくとも紀元前10世紀までさかのぼり、現在のイラク周辺メソポタミア地方で既に方角や季節を知る目印として確立されていましたので、春から夏への移り変わりをデザインしたものかも知れません。
しかしその説ですと、なぜ四季のはっきりしたイランで、夏や秋の星座の動物が彫られなかったのか疑問の残るところです。
筆者個人的には、やはり猛牛をも狩る勇敢なライオンを描いて、ペルシア帝国の強大な権力を他国へ誇示したかったのではないかと思います。