京都は右京区、嵯峨に佇む日本最古の門跡寺院・大覚寺。弘法大師、空海を宗祖と仰ぐ真言宗大覚寺派の大本山であり、いけばな嵯峨御流の総司所、発祥の寺としても広く知られています。今回は、そんな大覚寺の歴史をはじめ、門跡寺院特有の雅やかな御所風建築の数々、日本最古の人工林泉である名勝・大沢池など、大覚寺の見どころをご紹介します。
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大覚寺とは
大覚寺の正式名称は、旧嵯峨御所大本山大覚寺。876年(貞観18年)、嵯峨天皇の離宮・嵯峨院の一部を寺に改めたのがはじまりで、山号は嵯峨山。真言宗大覚寺派の大本山であり、御本尊は不動明王を中心とする五大明王です。
1308年(徳治3年)には、後宇多法皇が入寺しここで院政を行うなど、日本の政治史にも深い関わりを持ち、嵯峨天皇を流祖と仰ぐ、いけばな嵯峨御流の総司所、発祥の寺としても広く知られています。
明治時代初頭まで、天皇もしくは皇統の方が代々門主を務められた格式高い門跡寺院で、旧御所らしい絢爛さを今日に伝えています。
境内の見どころ
宸殿・しんでん(重要文化財)
宸殿は門跡寺院特有の建物名で、この宸殿は後水尾天皇に入内した中宮・東福門院和子(徳川2代将軍秀忠の娘)の御殿を移築したものです。蔀戸(しとみど)を用いた寝殿造り風の建物で、妻飾り、破風板(はふいた)、天井などにも見事な装飾が凝らされています。
部屋の内部も豪華な襖絵で飾られており、特に狩野山楽筆の「牡丹図」は、大覚寺の御朱印帳の装丁やクリアファイルなどのオリジナルグッズにも多数使用されている、大変華やかで人気のある障壁画です。
正寝殿・しょうしんでん(重要文化財)
正寝殿は、「剣璽(けんじ)の間」「御冠の間」「紅葉の間」「竹の間」「雪の間」「鷹の間」「山水の間」「聖人の間」など、12の部屋からなる書院造りの建物です。
中でも注目すべきは、後宇多法皇が院政を執っていた「御冠の間」。執務の際には御冠を傍らに置いていたことから、そのように呼ばれています。南朝と北朝の争いに終止符を打った南北朝媾和会議もここで行われました。
村雨の廊下
諸堂を結ぶこの回廊は、縦の柱を雨、直角に折れ曲がっている回廊を稲光にたとえ、「村雨の廊下」と呼ばれています。天井は、刀や槍が振り上げられないように低く造られており、床は全面うぐいす張りです。
勅使門・ちょくしもん
勅使門とは、天皇の代理としての資格を以って宣旨を伝達する勅使が寺院に参向した時に使われる門のことで、勅使を迎える者が官位において勅使より上位であっても、天皇への臣礼同様の敬意を払うこととされていました。
現在の勅使門は嘉永年間(1848~1854年頃)に再建されたもので、門は四脚門、屋根は切妻造り、正面および背面に軒唐破風(のきからはふ)が付けられています。また、全体は素木造り(しらきづくり)ですが、唐破風の部分のみ漆を塗り、金鍍金(きんめっき)の飾り装飾が施されています。
名勝 大沢池
大沢池は中国の洞庭湖を模して嵯峨天皇が築造したものといわれており、当時の唐風文化の面影を今に残す園地は、1923年(大正12年)に国の文化財として名勝に指定されました。
南東にゆるく傾斜する地形を利用し、南から東にかけて長い堤を築くことで北西側からの流れをせき止めて造られた人工の池であり、周辺水田の灌漑用水として重要な役割を果たしていたことがわかっています。平安時代前期の名残をとどめた、日本最古の庭池です。
名勝 名古曽滝跡・めいしょう なこそのたきあと
大沢池の北方約100メートルに位置する名古曽滝跡。1923年(大正12年)、大沢池とともに名勝に指定されました。
「滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れて なお聞こえけれ」という和歌は、古典の授業などで耳にしたことがある方も多いのではないでしょうか?この和歌は、六歌仙のひとりに数えられる藤原公任が、藤原道長の嵯峨逍遥同行の際に詠んだもので、百人一首にも選ばれています。
アクセス
旧嵯峨御所大本山大覚寺
〒616-8411 京都市右京区嵯峨大沢町4番地
☎︎075-871-0071 大覚寺HP
拝観時間・拝観料
- 9:00〜17:00(16:30受付終了)
- 大人 500円、小中高 300円 / 大覚寺・祇王寺共通券 600円
交通案内
- 市バス・京都バス「大覚寺」下車、徒歩約1分
- JR嵯峨野線「嵯峨嵐山駅」下車、徒歩約15分
- 京福電鉄「嵐電嵯峨駅」下車、徒歩約20分
- 旧嵯峨御所 大本山 大覚寺
- 嵐山・嵯峨野・太秦・桂 / 寺 / 紅葉 / 桜の名所
- 住所:京都府京都市右京区嵯峨大沢町4地図で見る
- 電話:075-871-0071
- Web:https://www.daikakuji.or.jp/