旅行雑誌を見たり函館旅行について検索すると、必ず出てくるのが異国情緒漂う教会群・旧領事館や史跡が立ち並ぶ元町・西部エリア。その中でひときわ目を引くのが「旧函館区公会堂」です。国の重要文化財に指定されており、多くの観光客が訪れる場所です。函館旅行をするなら是非見ておきたい旧函館区公会堂と楽しみ方をご紹介致します。
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旧函館区公会堂とは?
函館の開港後、外国人等も居留するなど最初に栄えた場所がこの元町・西部地区です。街の行政機能も当初はこの地区にあり、区民の集会所と商業会議所の機能を併せ持つ「町会所」が置かれていました。
函館は、ささいな火の不始末が強い浜風に煽られ、すぐに大火となってしまう地形です。明治40(1907)年の大火では西部市街地のほとんどが焼失し、この「町会所」も類焼してしまいました。
それを受け、大火の直後に「公会堂建設協議会」が区民有志により結成され、寄付を募ったのですが全く足りずに計画は難航を極めました。
しかし当時の豪商初代相馬哲平氏が、自身の自宅や店舗が焼失していたにもかかわらず5万円(当時の1万円は今の価値に換算すると2億円に相当すると考えられるため、現在では10億円相当)もの資金を提供したことにより、建築費総額約5万8,000円(現在では約11億6,000万円相当)という巨額工事にやっと着手することができ、明治43(1910)年に完成しました。
紆余曲折を経ながら完成した旧函館区公会堂は、左右対称のコロニアルスタイルにブルーグレーとイエローの外観が特徴的な壮麗で美しい建物として街を見下ろす場所に佇み、函館市民や旅行者を迎えております。
素晴らしい建設意匠や技法が評価され、昭和49(1974)年に本館が国指定重要文化財に指定され、昭和55(1980)年には附属棟が国の重要文化財として指定されました。
建設当初は、町会所・商業会議所事務所・ホテルという3つの機能を持たせる予定で、玄関も3カ所ありますが、ホテルとしては営業することはなく、明治44(1911)年、皇太子殿下(後の大正天皇)の行啓の際に2階の貴賓室が宿泊所として使用されたのと、大正11(1922)年には摂政宮殿下(のちの昭和天皇)が行啓の際の休憩所として使用されたのみとなっており、調度品等はほぼ新品の状態で展示されています。
旧函館区公会堂へ行くには?
市電 (函館駅前電停→函館どっく前行き)「末広町電停」を下車。電車通りから坂を見上げると、函館山の麓にブルーグレーとイエローの外観の建物、旧函館区公会堂が見えます。
函館の代表的な18の坂の1つである、基坂(もといざか)を上っていくと元町公園があり、その上に建っています。
それでは、旧函館区公会堂内へ入ってみましょう!
華麗な旧函館区公会堂で、明治・大正時代に浸る
旧函館区公会堂の主要なお部屋のご案内
最初は、玄関を入ってすぐ向かいにあるお部屋で、パネルなどを見て歴史を学んでみることをおすすめします。
向かいの部屋は、建設目的の1つである「商業会議所」の応接室。このほか事務室などもありました。
2階には、御座所や大広間などの貴賓室があり、前述した通り明治44(1911)年には皇太子殿下(のちの大正天皇)に行啓の際にご宿泊され、大正11(1922)年には摂政宮殿下(のちの昭和天皇)が行啓の際にも使用されています。
大広間はなんと130坪もあり、広さと華やかさに圧倒されます。
この大広間にはバルコニーがあり、出てみることができます。
バルコニーに出ると、函館の街を一望できます。ちょうど夕暮れ時だったので、だんだんと明かりが灯り始め、街の表情が変わっていく様子は、しばし時間を忘れて見ていたくなります。
ここにも注目!意匠・技法が素晴らしい!
当時、最もモダンと言われた公会堂には、建物内外に様々な建築意匠や技術が駆使されています。
なお、扉の上の飾り彫刻や寄木張りの床などの意匠は、建設費用のほとんどを工面した初代相馬哲平氏の邸宅である旧相馬邸でも同様の技術が使用されており、費用だけでなく意匠についても多くの貢献があったことが伺えます。 旧相馬邸についての詳細はこちらをご覧ください。
廊下の天井や調度品にも工夫とこだわりが感じられます。
意匠を凝らした館内同様、外観にも様々な意匠が施され、明治モダンの華やかさが感じされます。