パキスタン南部にある古代インダス文明の遺跡「モヘンジョ・ダロ」は、後世「死の丘」と呼ばれ、地元の人は決して近づかない呪われた場所でした。核戦争で滅びたとまで言われる謎の遺跡は、実際どんなところなのでしょうか。
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モヘンジョ・ダロとは
モヘンジョ・ダロは、紀元前2500年から紀元前1800年にかけて繁栄したインダス文明の古代遺跡です。パキスタンの南部インダス川沿いに位置し、多い時で4万人近くが住んでいたとされています。
- 出典:www.openstreetmap.org© OpenStreetMap contributors
現地の言葉で「死の丘」という意味を持ちますが、実際は後世の人が名付けた名称で、インダス語の解読が進んでいない現時点では当時、この都市がなんと呼ばれていたのか不明です。モヘンジョ・ダロ(死の丘)と名づけられた背景には、地元の人々が恐れて近づかなかったいくつかの原因があるようです。
謎の多い遺跡の理由
モヘンジョ・ダロは、現代においても解明された事実が遺跡全体の2割もありません。謎の多い理由は、主に調査の進まない環境的要因にあります。
これまで世界各国から多くの調査隊や考古学者が発掘調査を進めましたが、年間を通してほとんど雨の降らない乾燥地帯にあるモヘンジョ・ダロは、夏場は50度、冬場でも30度になる暑さのため風化が著しく、さらに、少し掘ると塩分を含んだ地下水が上がり、その塩分が土を浸食して遺跡の更なる崩壊を招いてしまう恐れがあるため、一向に発掘作業が進まないのです。世界のどのような遺跡もそうですが、判明している事実が少ないと様々な憶測を呼びます。
モヘンジョ・ダロが「謎の遺跡」とされるいくつかの例を挙げます。
①重なり合う遺跡の謎
上述のように、少しの採掘でも塩水が上がるため、モヘンジョ・ダロはどこが最下層になるのか未だ解明されていません。赤外線の電波センサーによる調査で、遺跡が7層に重なっているとする研究チームもあります。それが事実であるとすれば、遺跡の上に7度に渡って新たに都市を建設せざるを得ない何かがあったようです。
②遺跡のあちこちで見つかった人骨の謎
古代都市の遺跡は世界のどこでも同様に、塚(お墓)は決まった場所にありますが、モヘンジョ・ダロは、街のあちこちに散乱するかたちで発見される場所がありました。
イタリアのポンペオ遺跡のように、突然の火山爆発により一瞬にして街が墳灰に消滅させられた場合などに見られますが、モヘンジョ・ダロの近辺に火山はありません。遺体の山を見た後世の現地人が、ここを「死の丘」と名付けたのも頷けますね。
③核戦争があったとされる痕跡の謎
ある調査によると、モヘンジョ・ダロ遺跡は周辺地域と比較して50倍以上の放射線が検出され、一部では核戦争があったのではないかとする説まで浮上しています。近代においても現地住民が寄り付こうとしなかった理由が、放射性物質による被爆を恐れてのことだとすれば、少なくとも4000年も前に核が作られ確立されていたことになります。皆様はいかが思われますか。
そもそも古代遺跡は謎だらけ
世界に多数存在する遺跡のほとんどは、完全には解明されていません。これを言ってしまうと元も子もないのですが、その時代にその場所にいて、それを目の当たりにした人は現代において皆無ですので、完全に解明することは不可能です。石碑に何が書かれていても、当時の文献が遺っていたとしても、それが真実を書いているかどうかなど誰にも分からないです。
実際、歴史解釈は年を経て変わり、その時々の政治によっても捻じ曲げられていくものです。そのため、一般人である私たちは、その場を訪ねて感じることこそが事実であり真実なのです。それが遺跡の浪漫であり、面白いところなのですよね。
モヘンジョ・ダロ遺跡を訪ねた筆者の個人的な見解としては、上記3つのうち2つはインダス川に起因しているように思いますよ。3つ目の核戦争について、もし放射線の話が真実なのであれば、近くに隕石でも落ちたのではないでしょうか。本当に核戦争であったのだとすれば、少なくとも遺跡のすべてが跡形もなく消失していると思われます。
インダス文明モヘンジョ・ダロ遺跡(世界遺産)
モヘンジョ・ダロ遺跡は東西の二つの丘からなっており、東方の一般人の住む市街地区と西方の城砦地区に分かれています。どちらの地区も高度な測量技術によって緻密な都市設計がされています。それでは、1980年に世界遺産に登録されたモヘンジョ・ダロ遺跡をご紹介します。
神官王の像
入り口でチケットを買い、門をくぐると大きな公園があります。そこを歩いて突き抜けると遺跡の入り口に到達し、モヘンジョ・ダロではお馴染みの神官王の像(レプリカ)が出迎えてくれます。
城砦地区から発見されたこの神官王の像は、ひげを生やし三つ葉模様の衣装を着け、何か堂々とした風格を感じます。もともとは目の部分に貝がはめられ、衣装は青色、片膝を立てた姿だったとされています。神官王と名付けられてはいますが、実際はどのような役割の人だったか判明していません。
南部の都市カラチの国立美術館に展示されている、以下の写真に写っている像が「オリジナル(本物)」とされていますが、果たして本当にオリジナルなのか、それさえ未だ議論の余地があるそうですよ。それくらい、モヘンジョ・ダロの遺跡や遺物は解明が進んでいないのです。
ストゥーパ
こちらは遺跡内でメインとなるストゥーパです。15メートルほどの高さがあり、遺跡の中では最も高い場所にあります。このストゥーパがあったため、当初、モヘンジョ・ダロは紀元前2~3世紀にパキスタン北部で栄えた、ガンダーラに由来する仏教遺跡と考えられていました。
実際にこのストゥーパは、モヘンジョ・ダロの最盛期よりだいぶ後世に、遺跡のレンガの一部を使って建てられたものです。このため、今から100年前の1921年にイギリス統治時代のインド人考古学者がここを発掘するまで、世界的に貴重な古代文明であるインダスの遺跡とは認識されていなかったのです。
インダス文明自体は、紀元前5500年に遡ります。モヘンジョ・ダロは紀元前2600年頃から発展したとされているものの、それはあくまで発掘されているごく僅かな範囲内で述べられているもので、実際に深部まで採掘した場合、今より7000年以上前の遺跡が出てくる可能性もあるのです。
整然とした都市計画
モヘンジョ・ダロの都市遺跡は、碁盤の目に細分化された道路をはじめ、排水、貯水池、公衆浴場など水流部分に高度な技術が用いられています。
街路も整備され、強度を保つため道壁に補強を施すなど、現代と同じ施工がされているのが分かります。
井戸
モヘンジョ・ダロの水利システムは、現代と変わらないほど発達していたと考えらえています。当時の都市計画では最初の設計が給水システムと井戸だったとされています。
これまでに城砦地区、市街地区から合わせて700以上の井戸が発見されており、この井戸の数から住人はすぐ側を流れるインダス川の水ではなく、降雨を使用する清潔な生活をしていたのではないでしょうか。
Great Bath
モヘンジョ・ダロのGreat Bathは、古代最古の水タンクといわれています。Bathはおよそ12×7メートル、最大の深さは2.4メートルあり、底には水を排水するために使用されたとされる穴も発見されています。
石膏で塗られたレンガを用いたうえ、防水性のタールを使って耐水を施した痕跡があり、雨水の貯水、若しくは宗教儀式に使われたのではないかと考えられています。