ソウルの古宮(王宮)といえば、景福宮や昌徳宮などを思い浮かべる人も多いかと思いますが、伝統的な街・仁寺洞にある「雲峴宮」をご存知でしょうか。日本人にはさほど有名ではありませんが、韓国近代史を語る上では欠かせないスポットです。本記事では「雲峴宮」の歴史や見どころをご紹介します。
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伝統の街・仁寺洞とは
「仁寺洞(インサドン)」は、ソウルの中心部・鍾路(チョンノ)区にある文化の街として知られています。
朝鮮王朝時代には、王宮に勤める両班(ヤンバン/身分階級の最上級)が住んでいた伝統ある地域です。現在では、伝統的な文化に触れることのできる場所として、多くの観光客が訪れるソウルの人気観光スポットになっています。
「雲峴宮」の歴史
仁寺洞にある「雲峴宮(ウニョングン)」は、朝鮮王朝末期の政治家として知られる興宣大院君(フンソンデウォングン)の私邸且つ、その息子である朝鮮王朝第26代国王・高宗(コジョン)が生まれて王位に就く12歳まで過ごした場所です。
ソウルにある他の王宮と比べ質素なイメージですが、史跡第257号に指定されており、韓国近代史を語る上で欠かすことができません。
「雲峴宮」という名称の由来は、その当時「雲峴宮」の北側に大きな峠、その峠の上には雲、また峠の麓に霧がよく出ていたことからこのように呼ばれるようになったと言われています。
12歳という若さで王位に就いた高宗とその父・興宣大院君
1863年12月、朝鮮王朝第25代国王・哲宗(チョルチョン)が直径の世継ぎを残さずに崩御すると、哲宗の母の推薦により、哲宗の従兄弟であった高宗が12歳という若さで王位に就きます。実際は王位継承者から離れた家系にありましたが、父である興宣大院君が様々な布石を打っており、その結果王位に就いたとされています。
高宗は12歳という若さであったため、王室の礼にならい哲宗の母による垂簾聴政(すいれんちょうせい/幼い王に代わり、皇后や皇太后のような女性が摂政政治を行うこと)が行われました。
しかし、実際には政治に協力するという名分で高宗の父・興宣大院君の手に政権が渡ります。それから約10年間(1863年~1873年)にわたる興宣大院君の時代がやってきたのでした。
全盛期とその後、そして現在
権力の全盛期は、現在の「雲峴宮」周辺にある徳成女子大学、在大韓民国日本国大使館広報文化院、校洞小学校などの一帯全てが「雲峴宮」の敷地で、かなりの規模だったと考えられています。しかし、興宣大院君が政治の表舞台から退いた後は、徐々に衰退し、日本による統治時代や朝鮮戦争などにより破壊されていきます。
その後、保存状態の良かった建物だけでも残そうと、1993年~1996年にかけて補修を行い、1996年10月26日から一般公開となりました。
「雲峴宮」の見どころ4選
【見どころその1】守直舎
「雲峴宮」の警備と管理を担当していた人々が住んでいた建物が「守直宿(スジッサ)」です。
現在の「雲峴宮」よりも広大な敷地を有しており、敷地を維持するために多くの人手が必要だったとされています。
【見どころその2】老安堂
「老安堂(ノアンタン)」は「舎廊棟(サランチェ/男性の居住空間及び客を接待する場所)」として、政治的な議論を行う執務室のような役割を果たしていた建物です。
「老安堂」は典型的な韓国式の瓦葺で、今日ここにしか残っていない造りとなっています。「老安堂」という名称は『論語』の「老者安之(お年寄りが安心して暮らせる)」を引用したものと伝えられています。興宣大院君は、ここの一室で最期を迎えました。
【見どころその3】老楽堂
1864年9月に完成した「老楽堂(ノラッタン)」は「雲峴宮」で最も大きく、中心となる建物です。
ここでは、興宣大院君一家に関する様々なお祝い事が行われました。
高宗と明成皇后(ミョンソンファンフ/閔妃(ミンビ)とも呼ばれる)の結婚式が行われた場所でもあります。
【見どころその4】二老堂
1870年に完成した「二老堂(イロダン)」は「雲峴宮」で最も左に位置する建物です。
「二老堂」は男子禁制の女性だけの空間でした。簡単に侵入できないように、口の字型に建物が形成され、中央に庭園が設けられています。明成皇后が宮中へ入る前に、宮中作法を学んだ場所でもあります。