ヒトラー率いるナチス・ドイツが、第二次世界大戦中に造った強制収容所「アウシュビッツ」。当初はポーランド人の政治犯が多く収容されましたが、次第に「労働に適さない」とされた女性・子供・老人、そして「劣等民族」とされたユダヤ人・精神障碍者・身体障碍者・同性愛者を「処分」する「絶滅収容所」になっていきました。戦後、この地はそのまま保存され、博物館として「人類史上最大の負の歴史」を公開し、平和を考えさせる貴重な博物館となっています。今回は、このアウシュビッツ博物館をご紹介します。
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アウシュビッツ博物館について
アウシュビッツ博物館はアウシュビッツ1号と呼ばれる収容所と、アウシュビッツ1号から2kmほど離れたアウシュビッツ2号・ビルケナウ強制収容所(以下「ビルケナウ収容所」)から成り立っています。
多くの資料が展示されているのがアウシュビッツ1号、展示を設けず解放当時のまま保存された様子を見られるのが、ビルケナウ収容所です。
アウシュビッツ1号収容所
チケット売り場やガイドツアー受付があるのが、このアウシュビッツ1号収容所です。資料が多く、ここで起こった事柄を深く理解するためにも、ビルケナウよりもアウシュビッツ1号収容所から見学を始めることをおすすめします。
収容所入り口「死の門」をくぐって敷地内へ
収容所の入り口には「門」があり、そこには他の多くの強制収容所と同じく”ARBEIT MACHT FREI”(「働けば自由になる」というドイツ語)が掲げられています。
よく見ると、Bの文字が上下逆(上のふくらみの方が大きくなっている)になっています。これは、この門を作った被収容者がせめてもの抵抗の証として故意に上下逆にしたという説もあります。
「囚人棟」は「資料室」に
28棟ある「囚人棟」は、今はそのほとんどが「資料室」として使われています。資料室では当時撮影された写真や貴重な資料、そして遺品が展示されています。
強制収容所に連れてこられた人々の到着直後の写真です。多くの人々はこの到着後、「労働力になるかならないか」「人体実験に使えるか使えないか」で選別され、多くの人は直接ガス室送りになったそうです。
毒ガスとして使われた「チクロンB」という薬剤。元々は、農作業で用いる殺虫剤として使われていたものです。チクロンBが入っていた空き缶が山済みになって残っているのを見ることもできます。
このアウシュビッツ強制収容所に、約20トンのチクロンBが納入されたという納品書が、チクロンBの製造会社に残っているそうです。
この強制収容所に送られてきた人々の「遺品」。義足もこれだけ多いことから、障碍を持っていた方々も容赦なくここに連れてこられたことが分かります。カバンや靴も山積みになって残されていることから、本当に多くの方々がここに送られてきたことも分かります。他にも、小さい子のおもちゃや洋服もたくさんありました。
「囚人」の日々の生活を知ることができる資料も見られます。
当時の食事の内容。具のないサラサラのスープ1杯に、石のように硬いパンだけの食事だったそうです。
この女性はもともと75kgだったのですが、この収容所の生活で25kgくらいになってしまい、本当に「皮と骨」だけの状態になったそうです。
展示室と展示室をつなぐ廊下には、この強制所で亡くなった方々お一人お一人の写真を見ることができます。廊下ずっとに続く写真の数々…お一人お一人の人生が突然ここで絶たれたと考えると、いたたまれない気持ちになります。
ガス室
アウシュビッツ1号収容所に連れてこられた人の多くが命を落としたこの「ガス室」は、もともと遺体置き場でした。
チクロンBが投げ入れられた天井の穴も見ることができます。
遺体を焼くための焼却炉は当時3台あったそうですが、今は2台が残されています。
「死の壁」
ここアウシュビッツ1号収容所で、多くの人々が命を落としたのはガス室だけではありません。この「死の壁」は、2~3時間というとても形式的な短い裁判のあと、「死刑」と宣告された人を銃殺した場所です。ここで命を落とした人は数千人。今でも献花が絶えません。
アウシュビッツ2号 ビルケナウ収容所
ビルケナウ収容所はアウシュビッツ1号収容所よりも広く、300棟以上のバラックが立ち並ぶ大規模な収容所でした。
鉄道の引込み線が1本、まっすぐ敷地内に入り込んでいく景色が、当時列車に強制的に乗せられこの地に連れてこられた人々の運命を表しているようで、言葉で表せない悲しい印象を与えます。
敷地内
解放当時のまま保存された広大な敷地には、点々と木造のバラックが建てられており、自由に内部を見学することができます。当時の「地図」を見ると、数多くのバラックが建てられていたことが分かります。
点々と建っている「筒」は、ナチス軍が証拠隠滅のためにバラックに火を放った時に、焼け尽くされることなく残った煙突。この煙突の数だけバラックが立ち並んでいた、ということです。
バラック内
バラックの中に入ると、本当に「板一枚」で作られただけの建物だった、ということを実感できます。とても広いバラックに簡単なストーブが一台のみ。冬には雪が積もる極寒になるこの地で、これだけ簡素なバラックに多くの人々が「詰め込まれていた」ということを思うと驚愕です。
また、トイレも「バラックの中央通路部分に穴が空けられただけの台に座って用を足す」ものだったため、下水道も無いので疫病が蔓延し、それによって命を落とす方も多かったとのこと。
当時の様子も写真で見られます。ベッドも「薄い板一枚」のみで、まるで「蚕棚」だったそうです。