江戸時代に本格的に整備された東海道五十三次。そのなかのひとつである藤沢宿を他よりもディープに詳しくご紹介してきます!歴史好きにはお勧めですよ!
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東海道五十三次とは?
どこかで一度は耳にしたことがあるはず「東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)」。東海道というと、その昔々に整備された道かな~という認識は、世間一般ではあると思うのですが、そもそも「東海道」がどういう区分かをご存知でしょうか。
古代の日本において、五畿七道(ごきしちどう)っという地域のブロック分けがありまいた。これは、すごーく昔の行政区分です。
- 出典:commons.wikimedia.org五畿七道 /by 百楽兎 CC-BY-SA-3.0 from Wikimedia Commons
この五畿七道(ごきしちどう)が、いまも使われている地域ブロックの総称、例えば東海、北陸、山陽、山陰など、そういった言い方はこの五畿七道が元ネタになっています。
東海道は、名称に「海」が入っているので、なんとなくお分かりになるかもしれませんが「うみつみち」とも言われてました。風光明媚な感じがしますよね。そんな海が多い道だったので、当時の様子がわかる浮世絵でも海が多く登場します。
- 出典:commons.wikimedia.org歌川広重 - ボストン美術館, CC-PD-Mark, from Wikimedia Commons
現代人が認識している東海道はいつできた?
前述したように、古くから東海道という定義は確立されていましたが、我々、現代人にとって有名になった街道としての東海道は、江戸時代に五街道として制定されてからです。
- 出典:commons.wikimedia.orgFelice Beato -PD-Art (PD-US), from Wikimedia Commons
江戸時代に交通網ががっつり整備され、一般の人の往来も活発になっていきました。それによって、文献や浮世絵など後世の我々が目にすることができる資料が多いことも、我々現代人が認識する「江戸時代の東海道」の定着に一役かったのではないでしょうか。
昔々なので、移動手段は馬や徒歩。現代のように街灯があるわけでもなく、ポータブルのライトがあるわけでもないため、夜の移動というのは基本的に危険を伴うものでした。そこで日中歩ける距離で、休む場所がないと困るわけです。
ということで、宿場ができました。とはいっても、庶民の移動を優先して作られたわけではなく、裏事情としては、軍事利用として整備されたとも言われています。
藤沢宿とは
そんな宿場町のひとつである藤沢宿。今回は藤沢宿に焦点をあて、かなりディープに紹介します。藤沢は全国でも有数の観光地である江ノ島がありますが、当時も江ノ島参拝は大流行していました。
そんな背景もあって、江ノ島に参拝するために、とある偉人が残した軌跡も史跡として残っています。その史跡は藤沢駅の周辺に点在していますので、現在でも見て回ることができます。
それでは行ってみましょう!なかなかここまでディープに紹介している記事はないので、必見ですよ!
庚申堂(こうしんどう)
知らないと通りすぎてしまうほど、街中にひっそりとあるお堂が庚申堂(こうしんどう)です。庚申という言葉は、きっと皆さん馴染みがないかもしれません。
中国の道教に庚申信仰というのがありました。この信仰のなかで、「三尸説(さんしせつ)」という教えがあり、日本では、それをベースに仏教、密教や日本の民間のさまざまな信仰がまざった複合信仰となっています。
その信仰のなかでは、人間のカラダには生まれもって「三尸(さんし)」という三匹の虫がいる、とされています。それらは病気を引き起こす元になっています。
- 出典:commons.wikimedia.orgunknown (Chinese) - scanned from ISBN 4-05-602048-5., CC-PD-Mark from Wikimedia Commons
- 上尸(じょうし) → 人間の頭の中に住み、首から上の病気を引き起こす
- 中尸(ちゅうし) → 人間のお腹の中に住み、内臓の病気を引き起こす
- 下尸(げし) → 人間の足の中に住み、腰から下の病気を引き起こす
3匹の虫は、人間が死ぬことで、カラダの外に出て自由になるので、常々人間の寿命を縮めようと頑張っています。普段は、体内から出ることができない彼らですが「庚申の日」と定められた特定の日だけ、人間が眠っている間に体内から出ることが出来ます!
彼らはその絶好のチャンスを生かして、閻魔大王に宿っている人間の悪事を伝えて寿命を短くしてもらうのです!まあ、、、それだと人間は困っちゃいますから、虫がカラダの外に出ていかないように「庚申の日」は夜がきても眠らないために、お祭りをしてさわいでいました。
この庚申堂はそのときの集まる場所として使われていたようです。当時のパーティ会場というわけですね。
江の島弁財天道標(えのしまべんざいてんどうひょう)
さて、お次は「江の島弁財天道標(えのしまべんざいてんどうひょう)」です。
名前の通りで、江ノ島に行く人が、道に迷わないように案内の道しるべとして作られたものです。
こういった、道端にある道しるべって、素通りしてしまいますが、じっくり見ると実は面白いんです。よ~く見ていただくと、この道しるべは、掘られている文字をしっかり判別することができます。これ、なんでかおわかりですか?
実は眼が不自由な方でも、識別できるようにわざと深く文字を掘ってるからです。
文字には、江の島に祀られている弁天様をあらわす梵字が掘られています。目が不自由な人でもその深く掘られた梵字をさわって、「ああ、江の島に向かっているのだな」と確認したのでしょう。
道しるべを寄贈した人が偉人だった!
目の不自由な方のために深く文字がきざまれてますが、これを寄贈した方は「杉山 和一(すぎやま わいち)」という人で、1600年代の方です。この方がなんと世界発の視覚障碍者の教育施設を作った方なんです。
この方自身が、小さい時に病気で視力を失ってしまい、しかし生きていくために手に職をつけなければならず、方々に弟子入りをしました。ところが、残念ながらこのかた、とっても不器用な方だったよう。
逸話は落語で伝わってるので、もしかしたら若干盛られているのかもしれませんが、彼は自分の不器用さを神頼みして解決しようと思い立ち、江ノ島の弁天様に参拝にきました。その時、彼は鍼術を何とか上達させたいと思っていました。弁天様にお参りしたのち、奇跡なのか木の葉に包まれた松葉が身体に触れたことで現代にも通じる鍼術を編み出したとされています。
江島杉山神社(えじますぎやまじんじゃ)とのつながり
その後、彼は鍼治療の権威となりました。不器用だった彼は弁天様のご加護もあってか、なんと徳川綱吉の病気を治すまでの腕前になりました。これはとんでもない大出世です。
彼は東京の墨田区に土地を与えられました。そこに自宅と、世界発の視覚障碍者の教育施設を作ったのです。さらにさらに、敷地内に「江島杉山神社(えじますぎやまじんじゃ)」を創建しました。
江ノ島が入ってるのでおわかりですよね。江ノ島の弁天様のご加護を敷地に取り入れたんですね。
- 江島杉山神社
- 錦糸町・両国・清澄白河 / 神社
- 住所:東京都墨田区千歳1-8-2地図で見る
- 電話:03-3863-1308
- Web:http://ejimasugiyama.tokyo/