作家・歌人の樋口一葉の代表作『たけくらべ』は、今も高く評価されています。その舞台は、吉原遊郭と隣町の竜泉。2018年は樋口が竜泉に転居してから125年の節目の年となります。一葉が見た『たけくらべ』の足跡をたどる旅はいかがですか。
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樋口一葉と『たけくらべ』
近代文壇の女性作家の先駆けとなった樋口一葉は明治5年5月、東京の内幸町で生まれました。長兄と実父が相次いで亡くなったことから、若くして一家の大黒柱となり生計を立てる暮らし。
ある日、一葉は文筆で生計を立てることを決意し、作家半井桃水に師事しました。『たけくらべ』は明治28年から翌29年まで『文学界』に断続的に連載された短編小説です。遊郭に住む少女とお寺に生まれた少年の淡い恋を描いた作品は、当時の文壇から絶賛を受けました。
この頃、一葉は優れた作品を続けて発表。一葉が最も輝いて執筆活動を行った、この期間は「奇跡の14か月」と呼ばれています。その後一葉は肺結核に冒され、明治29年、24歳の若さで亡くなりました。
『たけくらべ』の舞台
明治26年、一葉一家は本郷菊坂町から下谷区竜泉寺町(現在の台東区竜泉)に移り住み、雑貨と駄菓子を売るお店を開店させました。竜泉寺町は吉原遊郭の隣町。山の手から遊郭の隣町に移り住んだことは、一葉に新鮮な驚きを与えたことは想像に難くありません。
また駄菓子屋を営む中で、地元の子どもたちの大人びた振る舞いにカルチャーショックを覚えたことでしょう。その経験が『たけくらべ』への着想に繋がっていったと考えられます。
江戸の不夜城・吉原遊郭
廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火ともしびうつる三階の騷ぎも手に取る如く
出典:樋口一葉/円地文子訳(1986).『たけくらべ・山椒太夫 (少年少女日本文学館1)』講談社
「表通りをまわって行けば、大門の見返り柳はかなりな道になるけれども、お歯ぐろ溝に吉原の大店の灯が映って三階の騒ぎ、歌は手に取るように聞こえるし」=円地文子訳
で始まる、樋口一葉の代表作『たけくらべ』。大門(おおもん)、見返り柳、お齒ぐろ溝(おはぐろどぶ)は、いずれも吉原遊郭に存在したものです。吉原遊郭は1618年に現在の日本橋人形町付近で営業が始まったといわれています。
その後、江戸幕府より移転が命じられ、吉原は浅草日本堤へと移りました。これが1657年頃のことです。それから約300年、売春防止法が施行される1958年に至るまで吉原は少しずつ形を変えながら江戸や東京の文化に影響を与えてきました。
吉原の象徴・吉原大門(おおもん)
『たけくらべ』の冒頭にある大門とは吉原に築かれた正門のことをいいます。遊郭の周囲は遊女が逃亡できないよう、お齒ぐろ溝(おはぐろどぶ)と呼ばれる堀で囲まれていたため、この大門が唯一の出入口でした。大門は時代とともに立派になったといわれ、明治期には竜宮の乙姫の像が施されたアーチ型の門になるなど、吉原のシンボリックな存在でした。現在はかつて大門があった場所付近に柱が立てられ、当時を再現しています。
男と女のドラマを見続けた、見返り柳
一方、見返り柳とは、吉原大門の近くにあった柳のことをいいます。大門を出た遊郭帰りの客が、その柳の下で、遊女を名残り惜しみ振り返ったことから、その名がついたとされています。震災や戦災による焼失などで、現在の見返り柳は6代目。今も男と女のドラマを見つめ続けています。
お齒ぐろ溝(おはぐろどぶ)
先述したように遊郭の周囲は遊女が逃亡を企てないよう、お齒ぐろ溝と呼ばれるお堀で囲まれていました。その名の通り、お堀を湛える水は漆黒だったといわれています。『たけくらべ』の冒頭、「お齒ぐろ溝に燈火ともしびうつる三階の騷ぎも手に取る如く」は、その堀に映る店の灯と遊女と客のどんちゃん騒ぎを表現しています。
また、三階の店とは、恐らく大店を指しており、当時吉原大門付近のお歯ぐろ溝沿いの大店といえば、大文字楼が存在しました。現在、大文字楼の跡地は吉原公園となっています。公園と沿道は高低差があり、その小道がかつてお歯ぐろ溝であったことがうかがえます。一葉はお歯ぐろ溝に映る大文字楼の灯を見つめていたのでしょうか。
かつての弁天堀・吉原弁財天
元来湿地だった吉原の南西部には、弁天堀と呼ばれる沼がありました。『たけくらべ』にも子どもらが水遊びを行う場所として登場します。弁天掘は1923年の関東大震災で生じた火事により、逃げ遅れた遊女ら490人が沼に飛び込み溺死。沼はその後埋め立てられ、その一部は現在、亡くなった遊女の霊を慰める吉原弁財天が建てられています。
- 吉原弁財天本宮
- 浅草・上野・谷根千 / 神社
- 住所:東京都台東区千束3-22地図で見る
- Web:http://yoshiwarajinja.tokyo-jinjacho.or.jp/keidai0...