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霧吹き井戸
大永2年(1522年)に掘られた井戸が霧吹き井戸です。天守台の脇に現存するこの井戸には、伝説が残っています。
東海の重要な拠点だった掛川城には様々な言い伝えがありますが、霧吹き井戸もその一つ。西は徳川家康、東は武田信玄に攻められた今川氏真(いまがわうじざね)が重臣・朝比奈泰朝(あさひなやすとも)のいる掛川城へ逃げ込みます。
徳川家康がこの城を落とそうと攻撃を仕掛けた際、井戸から霧が立ち込め、なんと城全体を覆ってしまったのだとか。この霧によって徳川軍は攻撃ができなかったと伝えられています。これ以来、掛川城は「雲霧城」とも呼ばれるようになりました。
また、この井戸自体は昭和35年(1960年)頃まで使われていたとのことです。
三日月掘と十露盤堀
四足門の前面に配置されているのが三日月掘です。
その規模は、長さ30メートル、最大幅19メートル、深さは最深部で5メートルあります。
三日月堀の反対側、四足門から北へ伸びる水堀が、本丸を囲む重要な掘、十露盤堀(そろばんぼり)です。
規模は不明確ですが、堀の深さは約3メートル、箱堀の深さは約1メートル程だったと言われています。十露盤堀という名称の由来も実ははっきりしませんが、水がたまった部分がそろばんの箱のように見えることから、十露盤堀と呼ばれています。
これらの堀は、自動的に水位の調節ができる工夫が凝らされていました。
掛川城天守閣
掛川城天守閣は、先述の通り平成6年(1994年)に復元されたものです。
天守閣は、外観は三層、内部は四階から成ります。天守閣本体は、東西に張り出し部を、入口に付け櫓(つけやぐら)を設けたりと、外観を大きく複雑に見せる工夫がされています。
天守閣内部の様子
天守閣は、戦の際に守りの要となる建築です。戦いがない時は、武器等の物置として使われていました。
現在の掛川城天守閣の内部には、山内氏や掛川城ゆかりの品などが数多く展示されています。掛川城の名を世に知らしめた山内一豊の騎乗姿や原寸大に複製された鯱などがあります。
更に大河ドラマ『功名が辻』で使用された幟旗も展示されていますよ。
また、天守の最上階では、掛川市街地を一望できます。
天気が良ければ、このように絶景を堪能できるスポットです。
掛川城御殿
城主の公邸、藩の役所、公式式典の場などとして使用された掛川城御殿。
書院造と呼ばれる建築様式で、畳を敷きつめた多くの室が連なり、各室は襖によって仕切られています。
現存する御殿は、嘉永7年(1854年)の大地震で倒壊後、安政2年(1855年)から文久元年(1861年)にかけて、時の城主太田資功(おおたすけかつ)によって、再建されたものです。
再建後の明治2年(1869年)までの14年間掛川藩で使用され、その後も女学校、掛川町役場、掛川市庁舎、農協、消防署などに転用され続けました。
現存する御殿としては、掛川城を含め全国で4箇所のみ(他は高知城・二条城・川越城)と大変貴重な建築物として、国の重要文化財に指定されています。
- 掛川城
- 静岡 / 城 / 観光名所 / 桜の名所
- 住所:静岡県掛川市掛川1138-24地図で見る
- 電話:0537-22-1146
- Web:https://kakegawajo.com
新幹線停車駅唯一の木造駅舎「掛川駅」
掛川城の最寄駅であるJR掛川駅北口。実は駅も、新幹線停車駅唯一の木造駅舎なのです。
掛川駅の木造駅舎は、昭和8年(1933年)年に建設されました。昭和15年(1940年)の改築以後、第2次世界大戦の戦禍や多くの風水害にも耐え、新幹線駅開業時もあえて建て替えをせずに残されていました。
平成20年(2008年)、JR東海より耐震強度不足として駅舎を鉄筋コンクリート造りに建て替える耐震化計画が発表されましたが、市民から木造駅舎保存するよう多数の声が寄せられました。その結果、木造駅舎を一旦解体、補強や耐震化され、外壁の板は旧駅舎のものを使用しほぼ元の形に復元され、現在の掛川駅が誕生しました。
- 掛川駅
- 静岡 / 駅
- 住所:静岡県掛川市南1丁目1地図で見る
- Web:https://www.tenhama.co.jp/about/station/kakegawa/
掛川で歴史を感じる旅を
いかがでしたでしょうか。駅から既に歴史を感じることができる、掛川。掛川城へ向かう際の歩道には掛川城が描かれたマンホールもあります。
「東海の名城」と謳われた掛川城を是非皆さんもご自身の目で確かめてみてくださいね。