北キプロス・トルコ共和国(通称:北キプロス)はキプロス島の北東部に位置する地域で、1983年に独立を宣言しました。東部に位置するファマグスタは、中世ヴェネツィア共和国統治時代の美しい建築の残る地域です。
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北キプロスとは
北キプロス・トルコ共和国(通称:北キプロス)は、キプロス島の北部に位置する地域で、1983年に独立を宣言しました。国際的にはトルコ以外の国から承認されていない未承認国家です。首都は北レフコシャ(ニコシア)、公用語はトルコ語で、通貨もトルコ・リラ、人種もトルコ人が多く、トルコの強い影響下にあります。
キプロス島の歴史
これらの国は、歴史を知ることでより一層、旅の楽しさが増しますので、ここで簡単にキプロス島の歴史を振り返ります。
- 紀元前15世紀前半:エジプト新王国の支配下にあり、ギリシア人が移住してミケーネ文明の影響を受ける。
- 紀元前11世紀:地中海域で最も早く鉄器時代へ。鉄器は小アジアのヒッタイトに伝えられ、クレタやギリシア本土に伝わる。
- 紀元前9世紀:キティオン(ラルナカ)に地中海東岸のフェニキア人が植民市を建設。フェニキア文字がギリシャ人へ伝えられ、ギリシア・アルファベットが生み出される。その後、アッシリア、ペルシャ、アテネの支配を受け、ヘレニズム時代を経て、
- 3世紀:ローマ属州となります。
- 4世紀:ローマ帝国が東西に分裂すると東ローマ帝国に属し、ビザンツ帝国の時代へ。
- 12世紀:十字軍によって占領されキプロス王国が成立。ジェノヴァとヴェネツィア商人が進出し東方貿易の拠点となる。
- 15世紀以降:ヴェネツィア共和国の支配下に入る。
- 16世紀:オスマン帝国に占領され、その後300年間支配。この時にトルコ人が多く流入。高関税を賦課したためイタリア商人は去り、イスラム化が進むもギリシア系住民はそのまま永住。
- 第一次世界大戦時:イギリスがキプロスを併合し、直轄植民地とする。
- 第二次世界大戦後:キプロスのギリシャ系住民(80%)がギリシャへの統合を主張しイギリスと対立。
- 1955年:イギリスはキプロスのギリシア統合を認めず、代わりに独立を認め軍事基地2カ所を確保。
- 1960年:キプロス島は「キプロス共和国」として独立。
北キプロス誕生の歴史
- 1964年:キプロスのトルコ系住民(20%)がギリシア系住民と武力衝突(キプロス紛争)。
- 1974年:ギリシアの軍事政権がキプロスに介入したことに反発し、トルコ共和国が出兵して北キプロスを占領。この時、島全体に満遍なく住んでいたギリシャ民族は南へ、トルコ民族は北へ移動。
- 1983年:一方的に「北キプロス・トルコ共和国」独立を宣言。
こうしてキプロスは南北で分断され今に至ります。
ファマグスタの歴史
ファマグスタ旧市街は、多くがフランス発祥の一族リュジニャン家によって建設されました。ファマグスタをコレほどの街に仕立てたのは彼ら。もちろんフェニキア人がここを開拓し土台は建設しました。
リュジニャン家は1184年にエルサレム王国の王位を継承し、1192年にキプロス王国の初代国王となるというモッスゴイ名家。リュジニャン家の統治下でファマグスタ(旧市街)は繁栄し、中世ヨーロッパおよび東地中海貿易の中心地として重要な役割を果たしました。
ファマグスタ旧市街の城壁もリュジニャン家によって建設されています。到着したときは私も思わず動画を撮ったほど非常によい保存状態です。これは、先述のとおりその後に脆弱性が指摘され、ヴェネツィア支配下(1500年代)で強化策が図られます。
結局のところ1571年にオスマン帝国により包囲されますが、3世紀以上も放置され、地震や洪水も重なって、1878 年にイギリス軍が到着するまでに街の大部分が廃墟となっていました。
現時点、ヴェネツィアから700年以上も経過しているにも関わらず、それほどの経年劣化も感じさせません。世界的に有名にならなかったことで人の往来を避け、無用な破損を防げているようにさえ思います。
キプロス島沿岸で一番海底が深く、かつてコンスタンティノープルやベニスに匹敵する港だったファマグスタは、数世紀にわたり様々な帝国に支配され、その当時その時々の遺跡が旧市街の至る場所に点在しているのです。
そこで、その素晴らしい建築群をご紹介しようと思いますが、その前に毎度の歴史を簡単にまとめます。
ファマグスタの歴史は主に、
- 古代:フェニキア人によって建設され、地中海貿易の中心地として繁栄(BC.16世紀~)。
- 中世:ビザンチン帝国(AC.4世紀)、アラブ帝国(7世紀)、十字軍(11世紀)が支配。
- ルネサンス:ヴェネツィア共和国(12~15世紀)が支配し、この頃に美しい建築物を多く建てる。
- オスマン帝国:オスマン帝国(16世紀)に征服され、文化が大きく変化。
- イギリス統治:イギリスの統治下(19世紀)に入り、近代化が進む。
- キプロス紛争:1974年のキプロス紛争以降、トルコ系住民が居住する地域となり現在に至る。
このように、ファマグスタは地中海貿易の中心地として栄えた一方、常々支配され宗主国が次々と変わってきた過去から、徐々にその歴史と文化が凝縮されていったのです。特にビサンチン(東ローマ帝国)とヴェネツィア時代はフレンチゴシック、ルネサンス様式の美しい建築物が多く建設され、その面影を今も残す最高に魅力的な街なのです。
街に多く点在するビサンチン&ヴェネツィア建築
ファマグスタ旧市街に点在する主なビサンチン&ヴェネツィア建築をご紹介します。かなり小規模ではありますが、パレスティナのエルサレム にも似た旧市街の造りにエラく感動。
それでは、当時のままの建築物を残すファマグスタの旧市街をご紹介します。
聖ニコラス大聖堂(St. Nicholas Cathedral)
ファマグスタの中央広場にある聖ニコラス大聖堂は、十字軍時代のエルサレム王やアルメニア王の戴冠式に使用された由緒ある大聖堂です。
地中海でもっとも美しい建物の一つとして知られているそうです。
現在は「Lala Mustafa Pasha Mosque」と名前を変えています。オスマン帝国の統治下ではモスクに回収されました。まあ、どこからどう見ても教会ですが、チョコンとミナレット後付け。笑
1298年から1312年にかけて建設されたこの教会は、この旧市街の中心、かつメインともいえる壮大な建築です。
この部分だけ取り出したら、西欧のどこかの教会と全く遜色ないですね。旗はトルコ(左)と北キプロス(右)。
ベネチア宮殿(Venetian Palace)
聖ニコラスの広場を挟んで向かい側にはベネチアン宮殿が建っていました。
3つのアーチの入り口は16世紀に建設され、中央のアーチのキーストーンには、1552 年にジョヴァンニレニエの紋章が刻まれています。
13 世紀にリュジニャン王の統治下でゴシック様式に設計された王宮でしたが、後にジェノバ人によって破壊されたそう。
今は柱とこれら遺物を残すのみです。
聖ペテロ・聖パウロ教会(St.Peter & St. Paul Church)
1358年から1369年にかけて建設されたゴシック様式の建物は、ファマグスタ商人のシモン・ノストラノがシリアで稼いだお金で建てたそう。
またの名を「シナン・パシャ・モスク」 イギリス統治時代に小麦の倉庫になっていたらしく、小麦モスクとも言われてる。
見事なフライングバットレスですね。
聖ジョージ・ラテン教会(St.George of the Latins church)
13世紀末~14世紀初頭に建てられたとされる初期ゴシック様式の教会です。
街から隔てられた塹壕壁に囲まれているため、実際には街よりも前に建てられた可能性があるとされる本当に古い教会。
天井こそないものの、柱や下壁は強固です。
聖ジョージ・ギリシャ教会(St.George of the Greeks Church)
14世紀に建てられたゴシック様式の大きな教会です。
ファマグスタのギリシャ正教地区出身の裕福なギリシャ商人によって建てられたと言われています。
上のジョージ教会と同じく現在は天井もない。
聖フランシスコ教会(St.Francis Church Ruins)
フランシスコ会は、13世紀にキプロス島へ到着して以来、島に浸透した大きな修道会の 1つだったよう。ホント様々な人とともに宗教も渡来しますね。この教会はファマグスタ・フランシスコ会の中で、最も重要だったようです。
オセロ城(Ohtello Castle)
ファマグスタ旧市街の北東角にある1310年に建てられた古い塔と要塞です。
ファマグスタ城は、1492年にベネチアのニコラオ・フォスカリーノによってイタリアのルネッサンス・スタイルで再建されました。
城の入り口ではベネチアのライオンが出迎えてくれます。
この城は、1505 年から 1508 年にかけてキプロスの総督を務めたクリストフォロ・モロ中尉の邸宅にもなったと言われています。
モロは、恋人のデズ・デモーナを殺したシェイクスピアの「オセロ」のモデルになった人物です。そして植民地時代、この城はそのシェイクスピアの「オセロ」にちなんで名付けられました。
Ravelin & Venetian City Walls
ここは、旧ファマグスタ入り口2つのうちの1つ。現在は6か所あるはず。前回の記事で書いた、私が旧市街へ入る際に通った通路(橋)から突き当たる門です。
この門と城壁は時が経つにつれて砲弾攻撃に対し脆弱であることが明らかになり、オスマン帝国軍に対する予防措置として、1492年に海側の城壁が再建されました。
1550年にはヴェネツィア人によって更に城壁が改修され、防御力を高めるために城壁の外側に幅46メートルの溝も掘られました。しかし呆気なく陥落します。城壁を上がると意外な広さ。旧市街を一望できるのです
ゾーニ教会(AY. Zoni Church)
15 世紀にビザンチン様式で建てられています。当時の正教会の多くは 6 x 4 メートルの大きさで建てられ、この教会ももれなくその大きさ。今でもしっかりと残っているドームと内壁は、かつてフレスコ画で覆われていたそう。
ニコラス教会(AY.Nicholas Church)
すぐ隣に建つこちらも15 世紀にビザンチン様式で建てられた正教会。中世のファマグスタ正教会地区には、上のゾーニ教会も合わせ4 つの教会が建てられました。
ネストリウス派教会 / 聖ジョージ・ゾリノス教会(Nestorian Church/St. George Xorinos Church)
ファマグスタのフランシス・ラカス卿とネストリウス派が1360年から1369年にかけて建てたゴシック様式の教会です。
建てられた当初はネストリウス派の教会として知られ、1905年以降はファマグスタ正教会によって使用されています。その際に聖ジョージ・ゾリノスとリネームされました。
聖ジョージ・ゾリノスについて語られる伝説によると、この教会から土を少し取って敵の家に置くと、1年以内にその家の者は死ぬか、キプロスを去ると言われていたとか。怖
聖アンナラテン教会 (St. Anna Latin Church)
中世ファマグスタのシリア地区ネストリウス派地区に位置する南フランスゴシックの教会。
建設は4世紀。内壁の西側の壁には、この修道会の創始者の墓があるのだとか。
タナーズ モスク(Tenners Mosque)
フランスのゴシック、ビザンチン、アルメニアのスタイルの組み合わせ。オスマン帝国時代には小さなモスクとして使用されており、その歴史は15世紀。
カルメル会教会(Carmelites Church)
カルメル会修道士がキプロスに初めて来た 1226 年以来、14 世紀に至るまでカルメル山の聖母に捧げられたファマグスタの修道院。ゴシック様式で、教会の内壁は純粋なイタリア風のフレスコ画でデザインされていたそうです。
聖マリア アルメニア教会(St.Mary Armenian Church)
シリアとパレスチナに住んでいたアルメニア人が、初めてキプロスにやってきたのは1360 年だそう。この教会は独創的なスタイルのため、今やキプロスにおけるアルメニア人存在の記念碑とみなされているそうですよ。アルメニア人は中世、ファマグスタに大司教区、聖セルギオス教会、聖バルバラ教会、聖マリア教会を持っていましたが、今日まで残っているのはこの聖マリア教会のみ。
ポルタ・デル・マーレ(海の門)と聖アントニオ教会
ファマグスタの、元々の2つのメインエントランスのうちの 1つです。イタリア・ルネッサンススタイルで建設。
ライオンのレリーフがあります。
城壁に囲まれたファマグスタ旧市街の主だった建築を巡りました。旧市街内には、忘れ去られた名も無い中世の建築残骸が多く残っており、その数は200か所にも及ぶそうです。
北キプロスの行き方
日本からの直行便はないので、2通りの効率的な行き方をオススメします。
- ①トルコ航空でイスタンブルを経由して北キプロス唯一の国際空港エルカン(ECN)へ
- ②南キプロスのラルナカにある国際空港は、周辺各国から多くのフライトがあります。中東やEUを経由して南キプロスへ入国し、首都のニコシアから徒歩で北キプロスへ渡ることができます。
尚、北キプロスは上述のとおり一方的に独立を宣言した未承認国家で、日本は北キプロスを承認しておらず在外日本大使館もありません。北と南の往来には一般的な入出国手続きが必要で、日本のパスポートでは容易に行き来できますが、来たキプロスにて不測の事態があった場合、日本大使館の対応が困難な場合があります。
ファマグスタの行き方
エルカン国際空港に到着した場合は、空港から直行バスがあります。また、レンタカーも充実しています。ニコシアから入国した場合は、旧市街を出た直ぐの場所に同じく直行バスが一時間に一本あります。入管を超えてすぐインフォメーションがあり、そこでニコシアマップをもらえますので、バスストップの場所を確認して行くとよいでしょう。
北キプロスは未承認国家で、国際的には注意喚起されているエリアですが、治安は良く、とても素敵なエリアですので、ぜひ旅の目的地の一つに!