熊本南部の人吉市は、日本最後の内戦「西南戦争」の激戦地の一つであり、2018年NHK大河ドラマの主人公西郷隆盛ゆかりの地がいくつもあります。今回は、そんな『西郷どん』ゆかりの地を含む人吉の歴史を知るスポットをご紹介します。
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西南戦争の激戦地となった人吉
明治維新後、新政府に出仕していた西郷隆盛ですが、明治9年公職を辞め故郷鹿児島にて陸軍士官養成学校を設立しました。その学生と九州の氏族が起こしたのが、日本史上最後の内戦である西南戦争です。人吉は、1862年人吉城が火災した際、復興費と人材の援助をしてくれた恩から薩摩側に協力することとなりました。
明治10年2月、鹿児島を出立した薩摩軍は熊本に入り、熊本城を攻めますが落とすことができず、その後の田原坂の戦いで負け、撤退を開始。再起を図ろうと4月27日人吉に集結、部隊を再編制します。しかし6月1日官軍が人吉へ進攻し陥落してしまいます(西郷隆盛は陥落3日前に宮崎へ移動)。
人吉隊は降伏し、その後官軍側に参加することとなります。なお薩摩軍は抵抗を続け戦闘は宮崎から鹿児島の地へ移っていきます。そして、7ヵ月以上に及ぶ戦いの末、西郷隆盛は9月24日鹿児島の城山で自決。これにより西南戦争は終結しました。
青井阿蘇神社
創建は806年。現在の建物は1609年から4年かけて造営されたものです。本殿、廊、幣殿、拝殿、楼門と五棟一連の御社殿は黒を基調とし、桃山様式と呼ばれる技法で建てられています。その一番の特徴は茅葺屋根。一連の御社殿が同時期のものであることは大変貴重で、平成20年、熊本県内では初めて国宝に指定されました。
この青井阿蘇神社の西側にある文化苑は、元々平安時代から青井阿蘇神社の宮司を務める青井大宮司家の屋敷でした。4月27日熊本から帰還した人吉隊士はここを宿舎・本部としました。
- 青井阿蘇神社
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- 住所:熊本県人吉市上青井町118地図で見る
- 電話:0966-22-2274
- Web:https://aoisan.jp/
永国寺
初代和尚が描いたという幽霊の掛け軸があることから、別名「幽霊寺」とも呼ばれています。境内では、その掛け軸や、幽霊が出たという池も見ることができます。
また、人吉に着いた西郷隆盛がここを本営(宿舎)とし、33日間滞在したとされています。滞在期間中、西郷は趣味の狩猟や魚釣りをしたというエピソードが残っています。境内には、西郷の位牌や人吉二番隊士の碑等があります。
西郷軍幹部宿舎(元新宮家屋敷・現武家蔵)
人吉相良藩元家老の新宮家屋敷。屋敷の建物は元々、錦町(球磨郡)にあったものを新宮家が拝領し、西南戦争後に現在地に移築しました。また正面の門は人吉城から移築されたものです。
入館料300円が必要となりますが、歴史好きの方にはぜひ入ってガイドの方の説明を聞いて欲しい場所です。なぜなら、先ほどご紹介した永国寺が西郷隆盛の本営とされており、観光パンフレットなどにもそのように書かれているのですが、実は西郷隆盛が宿舎としたのは永国寺ではなくこの場所だったというのです。
司馬遼太郎の小説『翔が如く』にはっきりと「西郷の宿舎は永国寺ではない。西郷が宿舎として使ったのは新宮嘉善の屋敷でした」という記載があるということや、この新宮家の父と息子が官軍と薩摩軍に分かれて戦うこととなったエピソードなど、興味深いお話しを聞くことができます。
人吉城
- 写真:トラベルライター1862年の火災を機に、防火のため石垣上部に突き出しがある「武者返し」と呼ばれる西洋式石垣が採用されました。
- 写真:トラベルライター本丸・二の丸・三の丸への唯一の登城口に置かれた「御下門」跡
人吉城は、鎌倉時代のはじめ人吉の地頭として着任した相良長頼(ながより)が築城したと伝えられています。1589年、20代相良長毎(ながつね)が石垣づくりの城として大改修しました。官軍との戦いの際、薩摩軍は三の丸辺りに大砲を持ち上げ、北側の官軍砲台が置かれた村山台地を攻撃しました。
人吉城歴史館
相良家家老・相良清兵衛の屋敷跡に建つ歴史館では、人吉を治めていた相良氏や人吉城に関する資料が展示されています。そして、必見なのがこちらの地下。この屋敷跡から発見された石積みで囲われた井戸のある地下室の復元展示を見ることができます。このように井戸がある地下室は全国でも例がなく、行水施設とも言われていますが、詳しい用途は分かっていないそうです。地下室への入口は普段鍵が閉まっていますので、見学の際はスタッフの方にお声掛けください。
- 人吉城歴史館
- 人吉市 / 博物館 / 雨の日観光 / 歴史博物館
- 住所:熊本県人吉市麓町18-4地図で見る
- 電話:0966-22-2324
- Web:https://www.city.hitoyoshi.lg.jp/q/aview/95/249.ht...
千人小屋跡
人吉城歴史館と人吉城跡の間に走る道路は、御馬責馬場(おうまぜめばば)と呼ばれる幅三十メートルほどの道でした。薩摩軍が去ったあとこの場所は、戦争で被災し家を失った人たちの仮住居が建ち並ぶ避難所となりました。